遷都、遷都でやっとたどり着いた「平安京」…引っ越しの理由は?千年も続いたのはなぜ? (3/5ページ)

Japaaan

早良親王の死後、桓武天皇の后や生母、さらに皇太子の安殿親王(あてのみこ)が次々に病に倒れて亡くなる人も出ます。さらに飢饉に疫病に洪水など、これでもかと言わんばかりに都に災厄が降りかかりました。

「怨霊の祟りだ」――。現代では想像もつかないほど、“怨霊”の存在が真剣に考えられていた時代です。桓武天皇は亡き早良親王に祟道天皇という天皇号をおくったり、鎮魂の儀式を行ったりしましたが効果はありませんでした。

そこで、天皇に訴えたのは、長岡京の治水工事を担当していた和気清麻呂です。彼は「長岡京の洪水は、治水工事くらいでは止められません。引っ越しましょう」と述べました。まだ引っ越して10年しか経っていない長岡京でしたが、桓武天皇は彼の忠告に従い、次なる都へ遷都することに決めます。

大手町の和気清麻呂像

ちなみに現代の視点で見ると、長岡京は洪水が起きても全く不思議ではない場所でした。もともと川に囲まれている上に、そのうちの一つである小畑川は、近代に入るまで頻繁に洪水を起こしています。怨霊や祟り以前に、長岡京は場所も悪かったのでしょう。

こんにちは平安京!水利も確保しひと安心

こうして、皆さんご存じ「平安京」への遷都が行われました。この都市は当時世界最大の都市だった唐の長安を模したもので、道路が碁盤の目のようになっている「条坊制」が採用されたのでした。また、土地の選定には、中国伝来の陰陽道が用いられたという説があります。

平安京は、明治維新後に首都が東京へ移されるまで、約千年間にわたり日本の都として機能します。

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