足利尊氏?高師直?あの有名な肖像画の騎馬武者は、どうしてザンバラ髪なの? (2/3ページ)
そうなると、髷を結ったままでは兜が固定しにくいため、兜をかぶる時には髷をほどくようになりました。
やがて頭が蒸れるということで頭髪の中央部を剃る月代(さかやき)スタイルが普及していきますが、それはもう少し先の話し。
だから、戦場における平常スタイルなのだと思えなくもないものの、再び髷を結うのが前提であれば、この髪はあまりに短すぎます。
実はこれ、もう「二度と髷を結わない」決死の覚悟で髪を断ち切った跡なのです。
生死を共に戦う覚悟建武2年(1335年)11月、朝廷から謀叛の疑いをかけられた尊氏は赦免を求めて断髪、恭順の意を示すものの許されず、やむなく叛旗を翻しました。
その時、御家人たちも決死の覚悟を共にするべく髪を一束切(いっそくぎり)にしたと言います。
……されば其比(そのころ)鎌倉中の軍勢共が、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛(まぎら)かさんが為也(ためなり)けり。……
※『太平記』巻第十四「矢矧、鷺坂、手超河原闘事」より
一束切とは、髻(もとどり。髪の根元)を握りこぶし一束(ひとつか。一掴み)分のところで髪をバッサリ切ること、または切った髪型を言い、再び結うのが難しいことから、基本的に死を覚悟した時の決意表明となります。