複数の学者が天使を哲学的に思考し提唱している「哲学的天使論」とは (2/4ページ)
■哲学的天使論とは
天使について哲学者、教育学者のモーティマー・ジェローム・アドラー(1902〜2001)、哲学者、カトリック神学者の稲垣良典らは、トマス・アクィナス(1225〜74 )の神学をベースに天使を哲学的に思考する「天使論」を提唱している。天使について思考することで人間とは何かを思考できるという。人間を身体と精神を兼ねた存在とした場合、動物は身体だけの存在となる。動物擁護の向きから反感を買いそうなので付け加えると、ここでいう精神とは感覚・感情に加えて、理性、知性の類を兼ね備えるものを指す。この定義を進めると天使とは「身体なき精神のみの存在」となり、人間は動物(植物、鉱物)と、神的存在(神、天使)の中間的な存在という「存在位階論」が成立する。「かれは天使でもなく、動物でもなく、人間である」(パスカル「パンセ」)
そして動物から人間への進化があるなら、人間から神への道もあってよい。しかし人間と全能である神の差は人間と動物以上のものがあるだろう。そこで人間以上、神以下の存在が必要となり天使が想定される。
■哲学的天使論への違和感もあるが
このヒエラルキーに違和感を感じるのは人間の動物に対する優位だろう。生きとし生けるものはすべて平等ではないのか。人間を動物より上位に置くのは傲慢ではないのか。しかしこうあるべきという理想と、人間存在の特殊性という事実は別である。人間は動物とは明らかに異なる。動物は食う、寝る、増やすの円環の中で生きている。その目的は命をつなぐことである。人間だけがただ命をつなぐだけでは終わらない。この円環を超えている。そして動物にはない理性、知性を持って人間自身を超えた永遠なるものを思考することができる。
さらに死に対する態度である。人間は死に際して恐怖であったり、死を通じて生の意味を自覚したりもする。人間にとって死は単なる生命活動の終結ではない。稲垣は人間が特別な存在だとの「思い上がり」は許されないという言い分は理解できるとした上で、「人間のどこが特別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべき」(天使論序説)と指摘する。