「沖田氏縁者」の墓の女性は誰?新選組・沖田総司の恋人はまさかのあの人…?史跡巡りで見聞した説とは (3/4ページ)
光縁寺の山南敬介(一番右)と新選組隊士たちの墓石(一番左)※筆者撮影
沖田氏縁者は埋葬された時点でお墓が建てられた訳ではなく、長い間この過去帳に記帳されているだけの存在でした。墓石そのものは昭和51年当時の住職が供養のため建てたものです。住職によると、実はこれが明里なのでは?という説があるとのこと。
山南が切腹したのは元治2年2月23日(1865年3月20日)のこと。
謎の女性が葬られたのは慶応3年4月26日(1867年)のこと。
山南の死後、2年後ですね。
山南の介錯もした沖田が、明里を哀れに思い世話を焼いてあげ、また明里も沖田を頼りにするようになり、深い仲になったのでは?とのこと。
ここからは筆者の想像と推測も交ります。
沖田の労咳がうつったのか何らかの事情で死期が迫った明里が、「自分が死んだら山南と同じ場所に埋めてほしい」と沖田に頼み、それを沖田が聞き遂げてあげたのではと。
ただ、沖田が明里を哀れに思っただけなのなら、「山南縁者」としてもよく、わざわざ「沖田」としなくてもいいはずです。また、沖田が一方的に好意を寄せていたとしても、女性の意向を無視して「沖田縁者」として葬るとも考えにくいです。
となれば、この女性は「沖田の縁者」として葬られてもおかしくはないか、同意の上だったととみるのが自然で、二人の仲が浅からぬものと考えるのが自然ですね。また、光縁寺にゆかりがない人物なのであれば、ここに葬る必要もなかったはずです。