皇族や華族の子女たちを教育…学習院女子部のルーツ「華族女学校」は想像以上のすごさだった!

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皇族や華族の子女たちを教育…学習院女子部のルーツ「華族女学校」は想像以上のすごさだった!

「華族女学校」という言葉を聞いて、みなさんはどんな学校をイメージしますでしょうか?

なんだか、華やかな雰囲気が漂いますが、実は現在の学習院女子部のルーツなのです。ただし、その学校には現代から考えると、驚くべきことがたくさんありました。

そこで、今回の記事では、そんな「華族女学校」について詳しくご紹介したいと思います。

「華族女学校」とは?

「華族女学校(かぞくじょがっこう)」とは、明治18年(1885年)に皇后の命によって皇族や華族(以前の大名や公家たちなど)の子女たちを教育することを目的として四谷に設けられた学校です。

当時の学習院とともに、宮内大臣の管轄でした。明治39年(1906年)には、名称が「学習院女子部」となりました。

華族女学校を支えた女性たち

華族女学校は、それを支えた女性たちの存在無くしては語れません。特に有名なのが、下田歌子(しもだうたこ)と津田梅子(つだうめこ)です。

下田歌子は、宮中の袴をもとに機能性と上品さを兼ね備えた「女袴」を考案。宮中の袴をもとにしたのは、彼女が宮中で働いた経験があったこと、および、着物に帯という庶民風のスタイルでは礼節に欠くと考えたことからでした。

津田梅子は、津田塾大学を創設したことで知られていますが、実は華族女学校で英語を教えていました。

日本初の女子留学生となり、女子教育に心血を注いだ津田梅子の功績 〜新五千円紙幣肖像に

ちなみに、外国語は「欧語学」と呼ばれる科目で、主に会話を重視した内容でした。

驚きの華族女学校

華族女学校 Wikipediaより

華族女学校には、現代からすると驚きの文化も。例えば、授業参観もそのひとつ。普通、授業参観というと、生徒たちの父母が授業の様子を見に来るものを指しますが、ここでは、学校に来たのは生徒の親ではなく、息子のお嫁さん探しをする父母やその息子本人たちでした。

そもそも、華族女学校の生徒は華族出身。どこの家の娘かもわからない、なんてことはなく、しっかりとした良家の子女でした。ですから、参観に来る上流階級の人々(参観は、誰でもが入れたわけではないようです)からしたら、息子のお嫁さん探しにはぴったりの場所であり、機会でした。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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