慣れ親しんだ用語「鎖国」が教科書から消えそう!かわりの言葉「海禁」「限国」ってどういう意味?

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慣れ親しんだ用語「鎖国」が教科書から消えそう!かわりの言葉「海禁」「限国」ってどういう意味?

ドイツ語の翻訳だった「鎖国」という言葉

「鎖国」というと、1639年に徳川家光が鎖国令を発し、それ以降日本は世界情勢を全く顧みずガラパゴス化していった……というイメージが根強いですが、最近はそういうイメージも少しずつ切り崩されています。

徳川家光像(Wikipediaより)

確かに江戸幕府は外国との交流を厳密に管理・制限していたものの、一般的に「鎖国」していたとされる期間(1639~1854年)も中国(清)やオランダとは交易をしていましたから、もともと完璧な国際的孤立体制でもありませんでした。

さらに、今までのイメージを覆す驚きの事実として、徳川家光は「鎖国」という用語を一度も使っていないということが挙げられます。

初めて「鎖国」という言葉が用いられたのは、1801年当時、オランダ語の通訳をしていた志筑忠雄という人物が出版した『鎖国論』という書籍でのことです。

この著作は志筑のオリジナルではなく、ドイツ人のケンペル(1651~1716年)の著書『日本誌』の一部を訳したものでした。

ちなみにこのケンペルという人物は、長崎にあった出島のオランダ商館の医師として1690年から2年間日本に滞在し、将軍・徳川綱吉にも謁見しています。

世界的に見て、日本という国の情報が少なかった当時、ケンペルの『日本誌』は大きな反響を呼んだと言われています。

ケンペルはこの著書の中で「日本は鎖国している」という表現を用い、志筑はそれを忠実に訳したのですが、説明が概念的だったため一語にまとめて「鎖国」としたのです。

志筑のこの『鎖国論』によって、一部の知識階層や幕府内には鎖国という言葉が拡がりました。しかし、一般的に広まって使われるようになるのは明治時代に入ってからのことです。

「鎖国」の誤ったイメージが拡がる

明治時代になると、福沢諭吉をはじめとする啓蒙知識人が、西洋化こそが日本の進むべき道であると論じるようになります。一方、江戸時代は封建的だったことを強調するために、開国して文明開化された状態と対比する形で「鎖国」という言葉を多用しました。

そしてそれを受けて、歴史教科書にも「江戸時代は鎖国していた時代」と記されるようになったのです。

実際に江戸幕府がとっていた政策というのは、後に私たちがイメージするようになった「鎖国」とは全く違った意味合いのものでした。それは国際関係上の消極的な立場表明などではなく、むしろ国力が充実していたがゆえに、一部の国との貿易をストップさせるという方策だったのです。

長崎湾の出島の景色(Wikipediaより)

「じゃあやっぱり鎖国じゃないか」という意見もありそうですが、理由があって一部の国との貿易をストップさせるというやり方は現代でも行われていることです。それをもって、その国は鎖国している、という人はいません。

当時の日本が「鎖国」という政策をとっていたというなら、それは逆説的に鎖国政策という形で「開国」していたと言うべきでしょう。当時の権力者たちも、ちゃんと世界情勢のことは知っていました。

幕末期の日本が舞台のドラマで、よく、日本はずっと鎖国しているから庶民は外国についての知識が全くなかったかのような描写がなされることがあります。あれもだいぶ脚色が入っていると思われ、当時の庶民も、日本の外にも多くの国が存在していることは知っていました。

もちろん当時の庶民が、外国についての正しい知識を持っていたかどうかは別の話です。現代に比べればそういった情報は極端に少なかったでしょうし、現代の私たちを見れば明らかなように、情報が多いからと言って正しい知識を身に付けられるとも限らないのです。

そろそろ教科書からも消えるかも?

そんなこんなで、現在では「鎖国」という言葉はもう使わないで、別の言葉を採用しようという動きも出ています。

その一つに「海禁(かいきん)」というものがあります。これは中国が「明」「清」だった頃に、一般人の私的な海外渡航や海上貿易を禁止した政策の呼称で、当時の学者や江戸幕府の文書でも確認できる用語です。

また、国際交流は完全に閉ざしていないが限定されていたという意味で「限国」という言葉も提案されています。

「鎖国」という言葉が、教科書から消え去る日も近いのかも知れません。

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