自分の命は誰のものか。自分か他者か。死は遺された人たちのもの。 (3/3ページ)

心に残る家族葬

会葬者は葬儀の場で嘆き、追憶し、語り合い、死がその場にいる人々の間に共鳴していく。本来死とはこのような過程を経て認識されていくものであった。小松は中世における死の段階に言及し次のように述べる。

「かように看取る者と死にゆく者、死んだ者と死なれた者との相互の間で分かちあわれる時間の流れの総体が、中世における死だったのである」(1)

まさに葬儀とはこのようなものであった。しかし最近では通夜、告別式を行わない密葬(家族葬)が増加している。一部の知人、友人のみ、また会葬者不要、家族だけで済ませる形式も少なくない。これは主に故人の生前の意向である。葬儀にかかる経済的、時間的負担を家族に強いることをよしとしないということもある。だが、そもそも死を個人のものとして認識し完結しようという態度が現れているようにも思われる。ここには関係性という死の本来の意味を忘却した個人主義が根底にあるのではないか。

■死は遺された人たちへ

死は当人を超えて関係する者たちに共鳴し、関係する者の間で、死者は依然として存在する。科学主義、個人主義の現代では、死(生)が自己閉塞し、死のリアリティを我々から奪う結果になっている。これが死を軽んじ、自他の命を粗末に扱う風潮の遠因のひとつになっているように思われる。自己の死は残された人たちに残される。自死する前に、もう一度周りの人たちの顔を思い浮かべてもらいたいと願う。

■参考資料

(1)小松美彦「生権力の歴史 脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって」青土社(2012)
(2)小松美彦「生を肯定する―いのちの弁別にあらがうために」青土社(2013)
(3)末木文美士「他者/死者/私」岩波書店(2007)

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