自分の命は誰のものか。自分か他者か。死は遺された人たちのもの。 (2/3ページ)
他者の死は関係する者の間に共鳴し「他人事」ではなくなる。「死」とは関係する者たちの間で存在するものなのだ。
■自己閉塞する生死ー命は自分だけのもの?
死は関係性の中で存在する。そして死がそうであるなら生も同様である。存在とは関係性の上でしか成り立たない。他者がいてこそ自己の存在という言葉が意味を持つ。「人間とは社会関係の総体である」(2)「死と同様に、生もまた共鳴する存在として人々の関係のなかで成立しており、生はこうした共鳴関係のなかでしか捉えられないはずである」(1)
しかし、現代社会はこうした生死の本質に目を背け意味を歪めてしまっている。現代社会は科学的合理主義(物質還元主義)と個人主義(価値相対主義)が根底にある。科学は物理的事象のみを事実とし、すべての事象を物質に還元した。心や精神と呼ばれるものは脳内の電気反応に過ぎず、人体は「モノ」として捉えられた。人体が「モノ」であるならそれは誰の「モノ」なのか。当然自分のモノである。自分のモノは自分が勝手にできる。つまり個人主義である。科学主義と個人主義はここでつながる。しかし繰り返すが自己の存在とはそれだけで成り立っているものではない。
「つまり、私たちは身体の輪郭から内側だけが自己だと軽信しているが、実際は周囲の空間まで含めて自己が成立しており、他者との関係で、しかも他者が誰であるかによって、膨張しているのである。」(1)
本来自己とは身体の内側を超え周囲の空間まで含め、関係性の中で成立している。それにも関わらず、自己は内側にあるという認識がなされている。生も死も身体の内側にあるなら、その所有者が自由に扱ってよいということになる。こうして現代の死生観では、他者の間で「死(生)は共鳴する」という関係性は忘れられ、「自己閉塞する死(生)」となった。死は自分だけのものであり他者は無視される。自死へのハードルも低くなったわけである。
「観察する者・看取る者が置き去りにされ、死が個人の身体内で起こる客観現象となり、したがって個人の所有物であるかのように見なすことを可能にする、死の把握の仕方」(1)
■葬儀の意味
死が共鳴するという事実がもっとも現れる場が葬儀である。