自分の命は誰のものか。自分か他者か。死は遺された人たちのもの。 (1/3ページ)
自分の命は自分だけのものなのか。自分の命だからといって自分勝手に扱ってよいと単純に考えてよいのか。生も死も、他者との関係性を無視しては成り立たない。むしろ生死は関係性の中に存在する。
■死は存在しない。死は特殊。
そもそも自己の死なるものは存在しない。死の構造は特殊である。死とは常に自分以外の何者かの死である。自分の死を経験することはできない。臨死体験という現象があるが、蘇生した者は死んでいるとはいえず、自分の「死」そのものを経験することはできない。エピクロスの言葉は真実だろう。
「死というものは存在しない。なぜなら、我々が存在する限り、我々に死は存在しない。我々に死が存在するとき、我々は存在することをやめているからである。」
「死」とは他者の死のことであり「私」の死は存在しない。
■共鳴する死 死と関係性
他者とは自己と対置する存在であり、自己との関係性によって成り立つ。では他者のいない世界、関係性の存在しない世界ではどうか。例えば無人島などで誰にも認知されず、人知れず死を迎えた者はどうだろうか。この想定では本人の死を知るのは自分のみである。しかし、自分の、つまり一人称の死がありえないなら、この者に死は存在しない(この想定では想定している筆者の認識が存在するので、厳密には筆者との間に死は存在する)。
人間の死は、それに関わった者の間に共鳴して存在する。他者の死を人々は悼み、悲しみ、時には憎む。本来、死とはそういうものであった。生命倫理学者・小松美彦は「死にゆく者と看取る者との間で分かち合われる事柄として死があった。見られる者は、見る者の認識を通じて存立していた」と指摘する(1)。また、脳外科学者 片山容一医師は「本当の死は家族が死を受け入れたときにやってくる」と述べている(
2)。フランスの哲学者フランソワ・ジュリアンは、生贄のために引かれて行く牛を不憫に思い、代わりに羊を代わりにせよと命じた王の話を「孟子」から引き、「他の存在(それが動物であっても)と暗黙のうちに関係が生じ、たとえ一瞬でもそれに対面すると、人はそれに無感覚ではいられなくなってしまうのだ」と解釈した(3)。