「三代目マムシ」の毒は死してなお回り続ける!?戦国大名・斎藤龍興の生涯

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「三代目マムシ」の毒は死してなお回り続ける!?戦国大名・斎藤龍興の生涯

家督は継いだものの「八方ふさがり」に

戦国時代の「マムシ」と言えば、美濃国を実力で支配した「下剋上の体現者」斎藤道三が有名ですね。この斎藤家は、道三の子である義龍(よしたつ)、そしてその子の龍興(たつおき)によって受け継がれていきます。

斎藤道三(Wikipediaより)

今回はこの龍興の生涯がテーマです。彼の代の時に織田信長の侵攻を受けて敗北し、斎藤家の美濃支配はそこで終焉を迎えたのですが、そのしぶとさは、「マムシ」と呼ばれた祖父の家督を受け継いできた者としての面目躍如、という感があります。

斎藤龍興は、父の義龍が急逝したことで慌てて家督を相続することになりましたが、その時はまだ14歳でした。さすがに一人で切り盛りするのは難しく、家臣団のサポートを受けて領国経営を行うことになります。

斎藤道三(Wikipediaより)

ですが、隣国の尾張では織田信長が虎視眈々と美濃を狙っています。

信長の妻・濃姫は斎藤道三の娘です。つまり龍興からすれば叔母にあたるわけですが、道三は息子の義龍との諍いの末に戦死しているので、信長にとって美濃攻めは「亡き舅の敵討ち」という大義名分があるのです。

ならば信長以外の味方を確保しようと龍興は周囲を見回します。まず、隣国近江には浅井氏がいますが、これは織田方です。すでに信長は、自分の妹であるお市の方を当主の浅井長政に嫁がせて同盟を結んでいたのです。

この時点で、龍興は織田・浅井の二方面に敵がいる形でした。

では近江の六角氏はどうかというと、これは浅井氏との抗争に明け暮れ、斎藤氏の支援に割ける余力はない状態です。

こうして、龍興は家督を相続した直後から八方ふさがりの状態になります。

死後も影響し続けた執念

そんな龍興は、自身が信頼する家臣を寵愛した結果、家臣団の亀裂を招きます。

特に寵愛したのが家臣の「斎藤飛騨守」ですが、彼は日頃から言動が酷く、家中での評判もすこぶる悪い人間でした。

その結果、才覚ある家臣の竹中重治(竹中半兵衛)も見切りをつけたりしています。

竹中重治(竹中半兵衛)(Wikipediaより)

もともと斎藤家の家臣団と言っても、彼らは斎藤道三が下剋上でのし上がった時に味方になっただけの人間たちでした。深い忠義があって仕えていたわけではなかった彼らは、どんどん織田方へ流出していきます。

こうして人材不足と裏切りが相次いだ龍興は、織田の攻撃を防ぎきれなくなり、ついに美濃は織田家の支配する国となります。

しかし逃げ出した龍興は、なおも美濃再興の執念を燃やしていました。

彼は畿内へ向かうと、反織田方である三好三人衆と手を組んで抗戦を続けます。さらに石山本願寺を味方につけて反織田方にするなど、信長の天下布武にさまざまな方法で反撃しました。

そして、越前の朝倉義景のもとに出向くと、そこで客将として迎えられて小田川との戦いにも参戦することになります。

しかし織田方の勢いを抑えることはできず、1573年の刀根坂の戦いにおいて26歳の若さで討ち死にしました。

斎藤道三から受け継がれた「マムシ」の執念は、ここで潰えました。しかしその後も石山本願寺と信長との争いは続き、龍興の残した「毒」は死してなお威力を発揮し続けたのです。

参考:
歴人マガジン
武将辞典

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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