瞑想やエクササイズで知られるヨーガの本来の目的はこの世からの解脱 (2/4ページ)

心に残る家族葬

サーンキヤ哲学では心身はプラクリティの異なった形なので心身の一方が影響を与えるのは当然である。

心がいかに物質的であるか。私たちは心を制御できない。今日の夕飯は何を食べるかということさえ自分では決められない。肉じゃがが食べたいと気分は自然に湧いてくるものだ。意図的に「肉じゃがを食べたいという気分」を作るわけではない。感情に振り回され、欲望に囚われる。些細なことで人を恨む。病んで鬱になる人もいる。自分の心ほど厄介なものはない。

心を脳と言い換えると納得がいくかもしれない。私たちはよく脳に騙される。また脳を騙すこともできる。口角を上げるだけで心も軽くなるという。科学的唯物論では心は脳が作り出す電気反応、つまりは物質である。サーンキヤ哲学においても、心と脳は同じプラクリティ=物質である。サーンキヤ哲学には唯物論と同じく超越的な存在、神が出てこない。この世の存在はすべてプラクリティである。その一方で真の存在であるプルシャを根源としているサーンキヤ哲学は、奇妙な表現だが宗教的唯物論といってよいかもしれない。

■苦の原因

サーンキヤ哲学を実践的に展開したのがヨーガ学派である。その代表的な経典「ヨーガ・スートラ」が示すヨーガは「ラージャ・ヨーガ」といい、瞑想によるこの世からの解脱を目指す。仏教でいう解脱の境地「涅槃(ニルヴァーナ)」をヨーガでは「カイヴァリヤ」という。

解脱とは何か。この世は苦であり、苦であるこの世から離れることである。心が病んでいるとまではいかなくても、人生は楽しいと思って生きている人は少ないだろう。たまにはいいこともあるが生きることは辛いことだと考えている人の方が多いのではないか。人生は苦である。これはブッダの時代から変わらない。

プラクリティには「サットヴァ」、「ラジャス」、「タマス」の3つの性質(グナ)がある。サットヴァは慈悲や信仰などの聖なる、または静なる心。ラジャスは喜怒哀楽、欲望、活発な感情。タマスは無智で怠惰な性質。プラクリティはこの3つの「グナ」が渾然となっている。時には高貴な気分(サットヴァ)になる時もあるが、大抵は喜怒哀楽、欲望、執着(ラジャス)に振り回され、良いこと悪いことに一喜一憂し、怠惰な気分(ナマス)になってため息をつく。

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