瞑想やエクササイズで知られるヨーガの本来の目的はこの世からの解脱 (3/4ページ)

心に残る家族葬

常にサットヴァでいられればよいが、ラジャスが優勢になったり、油断するとタマスが口を開けて待っている。日常世界は不安定で苦に満ちている。それにも関わらず私たちは楽しいことや愛しい人がいるこの世界=プラクリティに執着している。これが苦の原因である。

一見楽しいこと、愛しい存在もまた執着の原因であり苦の原因となる。愛する者とはいつか別れの日が来るし、楽しい思い出があればあるほど別れは辛いものになる。別れは必ず来る。逃れようがない。だからといってこれも定めだと達観(サットヴァ)もできない。ただただ嘆き悲しみ(ラジャス)、喪失感、空虚に陥る(ナマス)。それがわかっていて愛する、愛するから苦しむ。仏教でいう「愛別離苦」である。しかしこれらは本当の自分ではない。

■解脱と死

私たちの本来はプルシャであり、自分自身と思い込んでいる「これ」はプラクリティが演じる映画や小説である。フィクションの物語に没頭する自分が目覚め、その画面から目をそらすこと。つまりこの世に対する執着を捨て、本当の自分、つまりプルシャに気付くこと。これが解脱である。

ヨーガ・スートラはこの世への執着=心の動きを止めよと説く。この世はフィクションであることに気づくこと。心の止滅は順次行う。この世は実体ではない。身体も実体ではない。心さえも実体ではない。プルシャからのベクトルを逆に辿り、プルシャをプラクリティから切り離す。プルシャを純粋に戻す。プルシャは変化しない純粋な存在なので、プルシャとなった自己は究極の変化である生死を超えた存在になる。

はっきり言えば、古典ヨーガが示す「生死を超える」とは、最終的には肉体的な死ということになるだろう。プルシャをプラクリティから切り離すことは、この肉体からもこの世からも離れるということ。自殺とは異なる肉体からの卒業である。自殺は肉体に強制的な退学を言い渡すに等しい。


■解脱の時期

そこまでして解脱する必要はあるのか。喜怒哀楽を捨ててまで純粋意識になることに意味はあるのだろうか。若く健康なうちに急いでもあまり面白くはなさそうである。私たちの肉体はいずれ滅ぶ。

「瞑想やエクササイズで知られるヨーガの本来の目的はこの世からの解脱」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る