民のためなら祟りなど…神も巫女も恐れずタブーに挑んだ平安貴族・藤原高房

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民のためなら祟りなど…神も巫女も恐れずタブーに挑んだ平安貴族・藤原高房

よく「触らぬ神に祟りなし」などと言われるように、下手なことをしてトラブルに巻き込まれるよりも、ただ事態を傍観しておこうとする事なかれ主義は、今も昔も日本人の悪しき慣習として続いています。

誰かがやらねばならないけれど、それを自分ではありたくない。あぁ、誰か面倒を承知でやってくれるお人よしが現れないかな……成功すればその勝ち馬に乗り、失敗すれば水に落ちた犬のように叩けばいい(むしろ叩きたい)。

そんな事例をこれまで見てきたし、歴史上をひもといても枚挙にいとまがありませんが、中には「みんなのためなら、自分が進み出よう」とする偉人たちもいました。

藤原高房。菊池容斎『前賢故実』より

今回は平安時代の貴族・藤原高房(ふじわらの たかふさ)を紹介。彼が魅せた義勇奉公の精神を、皆さんにも知って頂けると嬉しいです。

祟りが怖くて役人が務まるか!

藤原高房は延暦14年(795年)、藤原北家魚名流の名門貴族・藤原藤嗣(ふじつぐ)と紀古佐美女(きの こさみのむすめ)の間に誕生しました。

身の丈が6尺(約180センチ)と大柄で人並み外れた腕力を誇り、また豪放で快活な性格だったそうです。

弘仁13年(822年)に右京少進として平安京の行政や治安維持を担当し、天長3年(826年)には人事を司る式部大丞を務めます。

天長4年(827年)には美濃介(国司の補佐)として現地へ赴任。面倒なことでも部下任せにせず、飴と鞭を使い分けた巧みな政治で国内から盗賊を一層してしまったそうです。

そんな高房が美濃国(現:岐阜県南部)に在任中、安八郡(あはちまのこおり)で貯水池の渠(みぞ)が壊れているのを見つけました。

「これでは作物に水をやれないではないか。すぐに直すのだ」

「このままでは、作物が育たないではないか!」高房は渠を直すよう命じるが……

しかし、命じられた農民は答えます。

渠の神が水に濡れるを嫌がり、無理に直そうとした者が祟りによって死んでしまったため、前任の国司が直さなかったのです」

直せば祟り殺されるから、それが恐ろしくて放置してあるということか……それなら、と高房は重ねて命じます。

「よし、それが本当ならば私が祟りを受けてやろう。この命一つでみんなが助かるなら安いもの……全責任は私がとるから、すぐに渠を直すのだ」

「「「ははあ……」」」

かくして渠は修理され、これと言った祟りもなく人々は農作業を再開できたのでした。

またある時、今度は席田郡(むしろだのこおり)に怪しい巫女が教団?を率いて、年貢を拒否するどころか、勝手に人々から税を取り立てているとのこと。

「何でそんなことを許しておくんだ!」

「すみません。でも、ヤツは不思議な妖術を使って私たちを祟り殺すと言うので、恐ろしくて……」

いかがわしい巫女をとっちめる藤原高房。菊池容斎『前賢故実』より

まったく、どいつもコイツも祟りと言えば逆らえないと調子に乗りおって……高房はただ一人で巫女らのアジトへ殴り込んで張り倒し、縛り上げたのでした。

「神の名を騙って私腹を肥やす不届き者め……だが、お前ら(部下たち)もお前らだ。役人の端くれとして、天下公益に供する誇りを胸にしておれば、何の祟りが怖いものか!」

「「「はい、すみませんでした……」」」

終わりに

とまぁ、そんな具合で、その後も備後国(現:広島県東部)、肥後国(現:熊本県)、越前国(現:福井県東部)の国司を歴任、地方行政に成果を上げたのでした。

しかし、世渡りは下手だったのか出世は遅く、最終的な官位は正五位下にとどまり、仁寿2年(852年)2月25日、背中に生じた悪性腫瘍によって58歳の生涯に幕を下ろします。

誰かがやらねばならぬなら、自分が進んでそれをやる……そういう損得抜きで天下公益に供する日本人の姿を、現代の私たちも見習いたいものですね。

※参考文献:

黒板勝美『新訂増補 國史大系 第3巻 日本後紀 續日本後紀 日本文徳天皇實録』吉川弘文館、2007年10月

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