民のためなら祟りなど…神も巫女も恐れずタブーに挑んだ平安貴族・藤原高房 (1/3ページ)

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民のためなら祟りなど…神も巫女も恐れずタブーに挑んだ平安貴族・藤原高房

よく「触らぬ神に祟りなし」などと言われるように、下手なことをしてトラブルに巻き込まれるよりも、ただ事態を傍観しておこうとする事なかれ主義は、今も昔も日本人の悪しき慣習として続いています。

誰かがやらねばならないけれど、それを自分ではありたくない。あぁ、誰か面倒を承知でやってくれるお人よしが現れないかな……成功すればその勝ち馬に乗り、失敗すれば水に落ちた犬のように叩けばいい(むしろ叩きたい)。

そんな事例をこれまで見てきたし、歴史上をひもといても枚挙にいとまがありませんが、中には「みんなのためなら、自分が進み出よう」とする偉人たちもいました。

藤原高房。菊池容斎『前賢故実』より

今回は平安時代の貴族・藤原高房(ふじわらの たかふさ)を紹介。彼が魅せた義勇奉公の精神を、皆さんにも知って頂けると嬉しいです。

祟りが怖くて役人が務まるか!

藤原高房は延暦14年(795年)、藤原北家魚名流の名門貴族・藤原藤嗣(ふじつぐ)と紀古佐美女(きの こさみのむすめ)の間に誕生しました。

身の丈が6尺(約180センチ)と大柄で人並み外れた腕力を誇り、また豪放で快活な性格だったそうです。

弘仁13年(822年)に右京少進として平安京の行政や治安維持を担当し、天長3年(826年)には人事を司る式部大丞を務めます。

天長4年(827年)には美濃介(国司の補佐)として現地へ赴任。

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