天は我らに味方せり!木曾義仲の軍勢を撃退した水島の合戦「鎌倉殿の13人」
おごれる平氏、久しからず……。
永きにわたる雌伏を経て、源頼朝(みなもとの よりとも)はじめ各地で源氏が挙兵。
信州の木曾義仲(きその よしなか)によって、平氏一門はとうとう京の都を追われてしまいました。
しかし、このまま滅び去ってしまうかと言えばそうでもなく、果敢に抵抗を続けています。
そこで今回は迫り来る木曾勢を撃退した水島(みずしま)の合戦を紹介。衰えたりとは言え、かつて天下に号令した平氏の意地を見せつけられたことでしょう。
天を味方につけた平氏方の戦略時は寿永2年(1183年)閏10月1日。義仲の命により都を立った木曾の大将・矢田判官代こと足利義清(あしかが よしきよ。義仲の叔父)らは7,000騎を率いて500艘の船に乗り込み、備中国水島(現:岡山県倉敷市)で平氏の軍勢と対峙しました。
木曾勢の顔ぶれは総大将の義清はじめ弟の足利蔵人義長(くろうど よしなが)、海野弥平四郎幸広(うんの やへいしろうゆきひろ)、高梨次郎高信(たかなし じろうたかのぶ)、仁科次郎盛家(にしな じろうもりいえ)と言った猛将揃い。
対する平氏方は平重衡(たいらの しげひら。平清盛の五男)、平通盛(みちもり。清盛の従弟)ら1,000艘を従えて迎え撃ちます(※兵数などについては、両軍ともに)。
合戦に備え、平氏方では船同士をつなぎ合わせて板を渡し、騎馬で自由に行き来できるようにしておきました。
また、軍馬についても日ごろから船上の揺れに馴らしておき、海上戦に不慣れな木曾勢に優位をとる周到ぶり。
「いざ!」「勝負!」
さて、合戦が始まるとやがて空が暗くなり、太陽を覆い隠してしまいます。
「何だこれは?」「もしや、天のお怒りか!?」
正午ごろに日食が発生し、それを知らない木曾勢は混乱。一方の平氏方は、かつて都で暦の製作や天文観測を司る陰陽寮に関係が深かったことから、この日の日食を予測していたのでした。
「物を知らぬ田舎武士ども、さぞや慌てふためく事であろうよ」
合戦は陸と海から木曾勢を挟み撃ちにした平氏方が勝利を収め、木曾勢は総大将はじめ多大な犠牲を払い、這々(ほうほう)の体で都へと逃げ帰ったということです。
終わりに合戦に限らず、昔から事業の成功には「天の時、地の利、人の和」が欠かせません。
都を追われた平氏方の存亡を賭けた一族の団結力(人の和)、自分たちが優位に立てる海上戦(地の利)、そして日食を利用して導いた勝機(天の時)。
水島合戦はまさに天地人を備え、一矢報いた平氏の意地と言えるでしょう。
やがて木曾義仲は鎌倉より攻めて来た源義経(みなもとの よしつね)らに滅ぼされ、平氏もまた壇ノ浦に散って行きました。
それまでに繰り広げられる多くの戦いについて、また改めて紹介できればと思います。
※参考文献:
山下宏明ら校注『平家物語(三)』岩波文庫、1999年9月 梶原正昭 編『平家物語必携』學燈社、1985年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan