浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】

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浮世絵師・月岡芳年の名作「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の裏に隠れた悲劇的な物語の結末【前編】

「自分の身を犠牲にしてでも誰かを救いたい」という想いは、そのやり方の違いはあっても古くから存在する考え方の一つだと思います。

そしてそのような考えから得られる結果は悲劇的な事が多いのも事実でしょう。今回はそんな浮世絵にどんな背景があったのか、ご紹介していきます。

『月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子』月岡芳年:作 月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクション所蔵

川べりの草でさえ、雪の重みに耐えかねぬような冬の寒い夜、地味な丹前姿の女性が凍てつくような川の流れに身を投げ、驚いた鷺が飛び立ちます。沈みかけの満月に照らされた妙に明るい雪灯りの夜。まるで無音の世界のようです。

上掲の作品は浮世絵師、月岡芳年の晩年の大作『月百姿(つきのひゃくし)』という全100点揃の大判錦絵の中の一つ「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」です。

月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 (部分)

月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子 (部分)

手を合わせ悲しみと祈りとがない混ぜになったような表情で、川に落ちていく女性の一瞬を切り取ったようなこの作品からは彼女の絶望感が伝わってくるようです。

なぜ彼女はこのように自ら命を断つようなことになったのでしょうか。

ちか子の本名は“千賀”といい加賀国(現在の石川県)に生まれました。千賀の祖父は「銭屋五兵衛」という人物だったのです。

銭屋五兵衛とは 銭屋五兵衛 ウィキペディアより

銭屋五兵衛 ウィキペディアより

千賀の祖父は「銭屋五兵衛」といい、銭屋の家系は代々加賀国の金沢で両替商・醤油醸造・古着商などを商っていました。五兵衛の父は金沢の外港の“宮腰”を本拠地として海運業にも手を拡げますが、そのときは振るわずに廃業します。

17歳で家督を継ぎ父の商売をさらに繁盛させていた五兵衛は、39歳の時に質流れの古船を手に入れて修繕し、当時盛んであった北前船の海運業を本格的に始めたのです。

大阪天保山夕立之景 画:八島岳亭 出典:Picrylより

大阪天保山夕立之景 画:八島岳亭 出典:Picrylより

“宮腰”は北前船の重要な中継港であり、五兵衛は米や木材の売買を中心に商いを拡大していきます。

北前船の特徴としで、自己資金で調達した荷を寄港地でより高く販売する商売船の「買い積み」があります。地域による価格差で儲けを出す仕組みで、価格差が大きいほど利益が上がるというものでした。

それまで材木の輸送は運賃だけを稼ぐだけの「賃積み」が一般的でしたが、五兵衛は利幅の見込める「買い積み」を選択し、それは材木の供給元の商売人にも利益を生み出し、歓迎されました。
しかし「買い積み」は船が沈没したり、買い手がつかない場合は大損になるというリスクも伴うものでした。

やがて五兵衛は、最盛期には千石積みの持ち船を20艘以上、全所有船は200艘を所有するという大海運業者となり『海の100万石』と呼ばれるほどの豪商となったのです。

加賀藩と銭屋五兵衛の結びつき

銭屋五兵衛たち一族が住む加賀藩藩主の前田家は、徳川将軍家との姻戚関係が強く幕府はどこよりも高い御用金を、常に加賀藩に求めた為にその台所事情はいつも火の車でした。

そこで五兵衛の商才は財政逼迫にあえぐ加賀藩の目に止まります。

撰雪六六談 六朔貢 加賀中将 国立国会図書館デジタルコレクションより

撰雪六六談 六朔貢 加賀中将 国立国会図書館デジタルコレクションより

あるとき藩の勝手方御用掛として実務にあたる“奥村栄実”は、加賀の豪商たちを集め金策を持ち掛けます。しかし皆、口を閉ざしてしまいます。そこで発言すれば、負担しなければならないことが分かっていたからです。

そのとき、五兵衛が4000両近い御用金を調達すると申し入れました。現在の金額にして約4億円です。その度量を奥村栄実に見込まれ、五兵衛は御用商人として御用銀調達の任務につくことになります。

五兵衛の持ち船だった三隻の北前船が藩の御手船とされ、五兵衛は藩の御手船裁許つまり藩が所有する商船の管理人となります。

藩の公認を得ての海運業ですから、さまざまな恩典が与えられ、また加賀藩お抱えという信用もあり、巨利を得たと言われています。

巨万の富を得ても強欲ではなかった銭屋五兵衛

鍬を振るう人

しかし銭屋五兵衛は商売の才能はあっても強欲な人物ではありませんでした。隠居して長男の喜太郎に家督を譲った後も、サツマイモの栽培を広めたり、町奉行に米や銀を寄付するなど困っている人達を助けようと努力しました。

また自身の隠居所を建て替えし、多くの職人や大工を雇うことで失業対策をするなど、結局は隠居といいながら仕事を続けるような人でした。

そして五兵衛は「亀巣」と号して茶の湯や俳諧を嗜む文化人でもありました。長男の喜太郎(千賀の父親)は“霞堤”、次男、三男も俳号を持ち、孫の千賀(ちか子)も共に俳句を詠むことを楽しんでいました。中でも千賀は一番俳句の素養を持つと言われていたのです。

銭屋五兵衛の海外貿易説 長崎港と出島

長崎港と出島 ウィキペディアより

江戸時代の鎖国体制下、銭屋五兵衛は異国との交易も行ってたという説があります。

五兵衛は蝦夷地を通してロシアと、そして自ら赴いて香港、中国そしてアメリカとも貿易を行っていたと言われています。オーストラリアのタスマニア島には現在は紛失しているものの“五兵衛の土地と記した石碑”があったと言い伝えがあります。

加賀藩は財政が厳しくても藩としての面子を保たなければならない為、五兵衛から献上金を受け取ることで、異国との交易を黙認していたといわれています。

何故、五兵衛が密貿易を行っていたのかというと、加賀藩前田家に出仕していた“本田利明”の思想に影響を受けていた為だと考えられています。

利明の思想の基本は“今や国益の大半は商人のものとなり、そのごく一部を武士や農家が分け合っているような状態である、このように武士や農家が困難困窮する状態は日本開国してから初めてのことであり、今どうにかしなければ、取り返しのつかない状況を招きかねない”というものでした。

そのため、本田利明は欧化主義を唱え、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論を説き、特に幕藩体制を超えて“国家”が貿易をはじめとする商業全般を掌るべきとの考えを示していた。

五兵衛はこの本田利明の考えに共感し、海外貿易との必要性を感じていたと思われます。

しかし、この五兵衛の海外との貿易は現在ではあくまでも“一つの説”として考えられています。しかし筆者には五兵衛の海外貿易には、多少の事実があるのではないかと思えてなりません。

なぜなら五兵衛にはそれが出来る財力や環境があり、日本は完璧な鎖国状態を保つことが出来ず、他藩にも海外と取引をしている者もいた訳で、五兵衛にも海外から取引を持ちかけられていた事は容易に想像できます。

加賀藩は常に財政難で、その加賀藩が目をつむれば五兵衛には海外貿易をしない理由はなかったのではないでしょうか。

「浮世絵師、月岡芳年に描かれた「月百姿 朝野川晴雪月 孝女ちか子」の祖父・銭屋五兵衛が投獄される、その後(下)」に続きます。

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