藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?

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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?

奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次

源義経(出典:ウィキペディア)

源平合戦において、随一の英雄とされるのが源義経です。

義経は河内源氏の棟梁・源義朝の遺児でした。幼くして父が平家との戦いで敗死し、母・常盤御前も捕らえられて平清盛の愛妾となっています。

牛若丸(義経の幼名)は、幼くして仏門に入れられて母や兄・今若丸阿野全成)や乙若丸(義円)らと離れて暮らすこととなります。牛若丸は鞍馬寺で出家して遮那王と名乗り、長じて武芸の達人となりました。

やがて全てを知った遮那王は平家への復讐を誓って京都を脱出。父・義朝が落命した尾張国で自ら元服して源九郎義経と名乗ります。京を去った義経は奥州(東北地方)に身を寄せました。当時の東北地方では、奥州藤原氏が独自の政権を築いていました。奥州藤原氏当主・藤原秀衡は義経を平家から匿って養育します。

義経の奥州下向と秀衡の庇護が、のちの源平合戦の帰趨を決することとなるのです。このとき二人を繋いだのが、金売吉次(かねうりきちじ)と呼ばれる商人でした。金売吉次は軍記物語(『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』)に登場する伝説がかった人物です。金商人として奥州産の砂金で商い、奥州藤原氏との関わりも持っていたと推察されます。

当時の奥州は金と馬の名産地として知られていました。日宋貿易において金は重要な輸出品だったため、奥州は朝廷や平家からも注目されていたようです。奥州はのちにマルコポーロの『東方見聞録』において日本が「黄金の国・ジパング」と紹介される源流となったようです。

吉次は、軍記物語によると京の三条(あるいは五条)に居を構えた金商人だったと伝わります。当時の金の需要から、相当な長者(金持ち)だったようです。義経と吉次は京で出会い、交流を持ったと考えられています。

当時の義経は、仏門にあって俗世間からは切り離された身の上でした。平治の乱後、源氏の関係者には厳しい処罰が降っています。源頼朝などは伊豆国に流罪。以降20年を同地で罪人として過ごすこととなりました。

まだ幼かった義経や同母兄の阿野全成や義円も、源氏の棟梁の係累として処罰の対象となっていました。いずれも仏門に入ることで助命されていたようです。

吉次は義経の決意を知ると奥州行きを勧め、同地へ誘うことを決めました。

奥州藤原氏の繁栄と義経

藤原秀衡(出典:ウィキペディア)

当時の奥州藤原氏は、第三代当主・藤原秀衡のもとで最盛期を迎えていました。秀衡は中央政界での騒乱には関わらず、奥州の統治に専念。平泉を中心として、奥州の政治を束ねていました。

当時の平泉は人口10万人を抱え、京に次ぐ繁栄を誇った大都市でした。無量光院や毛越寺、中尊寺など大寺院が建設され、仏国土と称されるほど仏教文化が花開いた土地です。

奥州藤原氏は金や馬の生産によって豊かな財力を持ちながら、17万騎(誇張でしょうが)と称される強大な武士団を抱えていました。嘉応2(1170)年には、秀衡は従五位下・鎮守府将軍に叙任します。

朝廷から昇殿が許される殿上人(五位以上)と認められると同時に、東北地方における自治権を認められていました。

そんな中、金売吉次が京から源義経を連れて奥州平泉に下向してきます。当時の義経は出家先の鞍馬寺から脱走した身であり、いわば平家から追われる身でした。

匿えば問題となるのは目に見えています。しかし秀衡は義経を引き取って養育。平家から存在を隠し続け、平泉に住ませる道を選びました。

奥州藤原氏と義経を結んだ金売吉次は実在した?

中尊寺(出典:ウィキペディア)

金売吉次は、いわば義経にとって命の恩人とも言うべき存在です。

軍記物に存在は確認されますが、実際の史料(歴史資料)である古文書や日記には記載がありません。

以下、軍記物語の記載を見ていきましょう。

・『平治物語』→「奥州の金商人吉次」

・『平家物語』→「三条の橘次(吉次)と云し金商人」

・『源平盛衰記』→「五条の橘次末春と云金商人」

・『義経記』→「三条の大福長者」「吉次信高」

以上のことから、軍記物語の話を総合すると「三条(あるいは五条)に居住する裕福な金商人であり、武士でもある」ことが浮かび上がります。

武士であり、金の商人でもあるというのはどういうことでしょう。一説によると、金売吉次は奥州藤原氏の政商であったとされています。

本当だとすれば、武士身分でありながら、商人としても活動したということに付合しますね。

平安時代や源平合戦の軍記物語ですから、フィクションも多分に含まれていると考えたくなりますね。

では金売吉次の存在は、伝説だけだったのでしょうか?

いいえ、ちゃんとモデルとなった人物がいたことが確認されています。それも当時の一級史料である『吾妻鏡』と『玉葉』にも記載がありました。

次回の中編に続きます。

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