【鎌倉殿の13人】非業の死を遂げた工藤茂光、実際はどんな最期だった?その生涯をたどる
身長180センチ、体重も180キロ(Wikipedia調べ)という堂々たる体躯を誇り、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で工藤茂光(くどう もちみつ)を演じた米本学仁さん。
伊豆の武士 工藤茂光
恰幅の良い伊豆在郷武士。北条家とは本拠がご近所で、仲が良い。
※「鎌倉殿の13人」登場人物紹介より
第3回「挙兵は慎重に」から第5回「兄との約束」まで活躍、そのインパクトがSNSでも話題になっていました。
劇中では本隊を離れたところを刺客の善児(演:梶原善)に討ち取られる最期でしたが、実際のところはどうだったのでしょうか。
今回はそんな工藤茂光の生涯をたどってみようと思います。
伊豆最大の豪族として勢力を伸ばす工藤茂光は生年不詳、伊豆の豪族・伊東祐隆(いとう すけたか。工藤家次)の子として誕生します。
工藤一族の所領は伊豆半島の山間部ながら、良質な牧草地(牧之郷)を押さえていたことから軍馬が豊富で、伊豆半島で最大の勢力を誇りました。伊東の苗字は伊豆半島の東部を占めていたことに由来します。
(この一族は史料によって工藤、伊東、また狩野など異なる苗字で表記されますが、話の都合上適宜書き分けていることをご了承下さい)
兄の伊東祐家(すけいえ)は伊藤祐親(すけちか)の父であるため、祐親にとって茂光は叔父に当たりますが、大河ドラマでは明らかに祐親の方が老年っぽい配役でしたね。
工藤一族は伊豆半島のみならず伊豆諸島も管理しており、保元元年(1156年)に保元の乱に敗れた源為朝(みなもとの ためとも。頼朝の叔父)が伊豆大島に流されると、その監視役となりました。
しかし為朝は伊豆半島で大人しくしているようなタマではなく、京都でも恐れられた豪傑ぶりを発揮して伊豆七島を従えてしまいます。
為朝の謀叛を抑えきれなかった茂光は上洛して討伐の院宣を頂き、嘉応2年(1170年)4月に伊東・北条・宇佐美氏らを動員。兵船20艘、500余騎で伊豆大島へ渡海しました。
「源為朝強弓ヲ挽テ官軍ノ艦ヲ覆へス」図。大槻東陽著『啓蒙挿画日本外史』より
抵抗の虚しさを悟った為朝は最後の一矢をもって兵船1艘を沈め、その実力を示した上で自害。その首級を加藤景廉(かとう かげかど)が刎ねたのでした。
そんなこんながあって、豪族たちは力を合わせ(時には小競り合いを繰り返しながら)伊豆半島にひしめいていたのですが、そんな小康状態もやがて破られることになります。
治承4年(1180年)8月17日、伊豆蛭嶋(ひるがしま。現:伊豆の国市)に流されていた源頼朝(よりとも)が挙兵したのです。
太り過ぎで足手まといに?石橋山で非業の最期「我らは佐(すけ。頼朝)殿にお味方申す!」
「バカな!」
源氏につくか平家につくか……工藤・伊東一族は大きく分かれました。
【源氏方】
工藤茂光、工藤五郎親光(ごろうちかみつ。茂光の子)、田代信綱(たしろ のぶつな。茂光の孫)、宇佐美祐茂(うさみ すけもち。茂光の甥)……など。
【平家方】
伊東祐親、伊東祐清(すけきよ。祐親の子)……など。
当時、伊東の嫡流は祐親が称していたものの、それは工藤祐経(すけつね。茂光の甥)から奪いとったものでした。
その暴挙に対する反感が、工藤一族をして頼朝に与せしめたものと考えられます。
歌川芳虎「治承四年兵衛佐頼朝石橋山義旗揚図」より、狩野介茂光(工藤茂光)。
しかし、源氏方は武運つたなく石橋山の合戦で惨敗。大庭景親(おおば かげちか)ら率いる3000騎の大軍に打ち破られてしまいました。
茂光は肥満体だったために逃げ足も遅れ、このままでは一族の足手まといになってしまいます。
「最早これまで……五郎(親光)よ。我は自害いたすゆえ、介錯せよ」
しかし親光は怯んだのか介錯を拒否。やむなく信綱がこれを引き受け、茂光の首級を親光に預けたのでした。
エピローグ志半ばにして倒れた茂光の墓は故郷よりほど近い静岡県函南町にあり、石橋山の敗戦後に父や弟と別行動をとって討ち取られた北条宗時(ほうじょう むねとき)の墓と並んで人々を見守っています。
北条宗時・工藤茂光の墓(奥側の小さな石塔が茂光の墓)。Wikipediaより(撮影:C2revenge氏)
大河ドラマでは茂光と宗時が一緒に最期を迎えた設定になっていますが、この辺りにヒントを得たのかも知れませんね。
その後、茂光の子らは頼朝に仕えて大いに活躍したのですが、それはまた別のお話し。
※参考文献:
日下力ら校注『新 日本古典文学大系 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan