出島への出入りを許された絵師・川原慶賀。幕府から二度の懲罰を受けた波乱に満ちた生涯 (2/3ページ)

Japaaan


開国後に外国人や海外の風俗を画題とした作品は多く描かれ人気を博すが、慶賀には画力はもちろん、間近で外国人の生活を観察できた立場があり、この画題において他の追随を許さないように感じる。

シーボルトの専属絵師としての活躍

川原慶賀によるイラの写生(Wikipedia)

1823年にオランダ商館付の医師として来日したシーボルトは、日本を紹介する自身の著書の挿絵を慶賀に依頼する。
慶賀はオランダ人画家デ・フィレーネフェから西洋画を学びながら、日本の動植物や風景、風俗、人物を描き続けたが、1829年に起きたシーボルト事件でシーボルトが日本追放となる。彼と深く関わっていた慶賀も長崎奉行所で取り調べの上に投獄された。

シーボルトは日本を離れる前に、自身の助手へ下記のような書面を宛てている。

助手に日本の魚類のすべてを、既知と未知との、あるいは珍奇なると一般的なるとを問わず、すべて写生することを提案する。
日本人画家、登与助の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵具は、自然や実物の美しさに負けないであろう。

自分が日本を追放されても、慶賀に写生を依頼することを提案しており、シーボルトからの評価の高さを窺がわせる。

また、追放後のシーボルトの元に送られた煙草箱には、日本に残した妻子の肖像画が螺鈿細工で施されており、慶賀はその下絵を描いている。シーボルトと慶賀の親交の深さを感じる一品だ。

シーボルトはオランダに帰国後に全7巻にも及ぶ大著『日本』を刊行。

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