【平安京の事件簿】惨殺され、野犬に食われた皇女の遺体…犯人が供述した黒幕は?

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【平安京の事件簿】惨殺され、野犬に食われた皇女の遺体…犯人が供述した黒幕は?

鳴くよ(794年)ウグイス平安京……で幕を開けた平安時代。やんごとなき貴族たちによる雅やかな王朝文化が花開いた一方、陰惨な事件も少なからず発生していました。

今回はそんな犠牲者と犯人たち、そして関係当局のエピソードを紹介したいと思います。

逮捕された犯人は何と……

時は万寿元年(1024年)12月7日、路上に女性の惨殺死体が発見されました。

女性は第65代・花山法皇(かざんほうおう)が側室の平平子(たいらの へいし。平祐忠の娘)に産ませた皇女(女王)で、太皇太后・藤原彰子(ふじわらの しょうし。道長の娘)に仕える女房(上東門院女房)です。

「いったい誰がこんな事を……」

野犬に食い荒らされる女房の遺体(イメージ)

昨晩12月6日、彰子の邸宅に強盗が入り、犯行を目撃されたのか女房を殺害。その後、犯人はどういうことか遺体を路上に引き出して放置。遺体は野犬に食い荒らされた状態で発見されたと言います。

さっそく検非違使が捜査に乗り出したものの、なかなか手がかりのないまま年が明け……そして半年以上が経過した万寿2年(1025年)7月25日、ついに容疑者が逮捕されました(3月に逮捕されたという説も)。

検非違使庁へ引き出されたのは僧侶の隆範(りゅうはん)。仏の道に仕えるべき身でありながら、強盗に殺人に……あるいは姦淫の罪も重ねたのかも知れません。

「とんでもない腐れ坊主め、拷問されないとタカをくくって口の重いこと重いこと……しかし、ようやく口を割り申した」

検非違使別当(長官)の藤原経通(ふじわらの つねみち)は、隆範に犯行を指示した黒幕が藤原道雅(みちまさ)であると報告します。

犯行動機は道長一派への脅し?

「あの悪三位(あくざんみ)か……」

藤原道雅は藤原道長との後継者争いに敗れた藤原伊周(これちか)の子で、家の没落や当子内親王(とうしないしんのう。三条院の皇女)との破局などから荒んでいました。

左京大夫道雅。菱川師宣筆

乱暴狼藉を繰り返し、従三位(じゅさんみ)の位階を授かっていたことから「悪三位」あるいは「荒三位(あらざんみ)」などと呼ばれていたのです。

まぁ、アイツなら命じかねない……日ごろの振る舞いから誰もが納得したものの、その動機は何でしょうか。

仮に道雅が隆範に何かを盗ってくるよう命じたとします。忍び込んだ隆範が、犯行を目撃した女房を口封じのために殺した、とするのは少し不自然です。

見つかりたくないのであれば、一刻も早く現場からの逃走を図るでしょう。女房の遺体をわざわざ路上に引き出すのは、見つかるリスクを高めるばかりで何のメリットもありません。

「となると、単なる物盗りではなく、女房自身が標的だった可能性もあるな」

では、道雅が女房に殺意を抱いたのはなぜか……彼女にフラれでもしたか、あるいは父から家督を奪って一家を没落せしめた道長を脅すため、その娘である彰子の身近な者(殺せるなら誰でもいい)を害したかった可能性も考えられます。

もし脅し目的であるなら、殺害した女房の遺体を路上に引き出して野犬に食わせ、惨たらしさを高めるのはより効果的と言えるでしょう。

スッキリしない幕切れ

……が、隆範はそれ以上自白せず、犯行の動機などについては頑として口を割りません。

太々しい態度の隆範(イメージ)

そればかりか、7月28日には盗賊の首領と名乗る者が検非違使庁へ自首したため、隆範に対する取り調べは中止に。その首領とやらについても結局どんな処分が下されたのか記録がなく、すべてうやむやになってしまったのでした。

「悪とは申せ三位は三位。しかるべき方面から手が回されたのやも知れんな……」

しかし流石にお咎めなしではなかったらしく、翌万寿3年(1026年)に道雅は左近衛中将と伊予権守を罷免され、右京権大夫に左遷されます。

これで殺された女房が浮かばれるはずもありませんが、理不尽な事件に憤る者たちにとって、せめてもの一矢となったでしょうか。

※参考文献:

倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年9月

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