ライバルにまで守られた!?死してなお子孫を守り続けた真田幸村(信繁)の「良縁」 (2/4ページ)
彼が真田家の人質として豊臣秀吉のもとに遣わされていた時に、秀吉の上意により政略結婚したと言われており、そのあたりは大人の事情を感じますね。
夏の陣の密かな奮闘この正室・竹林院も、信繁も九度山に配流となり生活は一変。そこでの生活は非常に苦しいものでした。しかし彼女は丈夫で美しい「真田紐」を考案し、それを家臣達に行商させて家計を助けています。大名の娘であるにも関わらず、内職までして夫を支え続けたのです。
1601年には嫡男の真田幸昌(大助)が誕生したのをはじめ、2人の間には1男5女が生まれています。生活は苦しいながらも夫婦仲は良かったのでしょう。
もし大阪の陣がなければ、家族全員、九度山で穏やかな一生を送っていたかもしれません。
しかし、時代の流れはそれを許しません。徳川家と豊臣家との間で雲行きが怪しくなっているのを知り、信繁は家族を連れて九度山を脱出し大阪城へ入城します。
冬の陣では信繁の活躍もあり、徳川方の攻撃に何とか持ちこたえて講和へと持ち込んだ豊臣方でしたが、夏の陣直前になり、圧倒的に不利な状況となります。
勝ち目がないとみた信繁は、長男・大助を手元に残し、敵方である伊達政宗の家臣・片倉重長に、次男・大八と娘たちの庇護を頼み込みました。
異例の行動です。重長と政宗は、事が発覚したら大問題になることを承知の上で信繁の頼みを快諾し、子供らを重長の居城である白石城に匿います。