ライバルにまで守られた!?死してなお子孫を守り続けた真田幸村(信繁)の「良縁」 (3/4ページ)
その後、信繁が戦死すると竹林院は大阪を脱出しますが、紀州で浅野長晟の軍勢に捕らえられました。
しかし、家康によって赦免され、娘であるおかねの保護を受けながら京で暮らしています。彼女は慶安2年(1649年)まで生き、京都で死去しました。
子孫たちを守り続ける不思議な縁片倉重長に庇護された子供たちは、その後も重長に匿われ続け、三女は重長の後室に迎えられました。
また、次男・大八は寛永17年(1640年)、28歳で伊達家(仙台藩)に召し抱えられます。この時、真田の名を聞いた幕府から「逆賊の子を匿っていたのではないか」と詰問状が届いていますが、伊達家は彼のことを幕臣・真田信尹(昌幸の弟)の次男政信の子だと弁明しました。
幕府もこれを深く追及はしなかったようです。
当時、庶民の間では大坂の陣で家康を最後まで追いつめた信繁の人気は高く、その子供を処罰したとなると騒ぎになると判断したのかもしれません。
その後、守信は姓を片倉に改め、片倉久米之介守信と改名します。
子孫が再び真田姓に戻ったのは、この守信から8代後、幕末期の真田幸歓の時です。この家系が仙台真田家として現在まで続いています。