【鎌倉殿の13人】北条の敵か味方か…市原隼人が演じる北関東の梟雄・八田知家の生涯を予習

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【鎌倉殿の13人】北条の敵か味方か…市原隼人が演じる北関東の梟雄・八田知家の生涯を予習

伊豆で挙兵してから苦難を乗り越え、鎌倉に本拠地を構えた源頼朝(演:大泉洋)。

その片腕として奔走する主人公の北条義時(演:小栗旬)と、次々増えていく御家人たち……。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もますます面白くなって来ましたね。

時に、13人の一人となる八田知家(はった ともいえ)は市原隼人さんが演じるとの発表がありました。

菊池容斎『前賢故実』より、八田知家。とてもお疲れ?のご様子。

頼朝に叱られたエピソードや『前賢故実』の肖像画からイメージしていた知家に比べて、ずいぶんワイルドでカッコいい知家になりそうですね。

常陸 八田知家(はった・ともいえ) 市原隼人

北関東を治める御家人。伊豆・相模・武蔵の勢力と一線を画す。北条の敵か味方か。

※参考:鎌倉殿を支える13人の御家人たちを紹介!

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条義時以外の構成メンバーは?その顔ぶれを紹介!

今回はそんな八田知家の生涯をたどりますので、大河ドラマの予習にどうぞ。

頼朝の異母兄だった説も…知家の生い立ち

八田知家は平安末期の康治元年(1142年)、下野国(現:栃木県)の豪族・宇都宮宗綱(うつのみや むねつな。八田宗綱)の子として誕生しました。

通称は四郎、兄に宇都宮三郎朝綱(さぶろうともつな)、姉に寒河尼(さむかわのあま/さむかわに。小山政光の室で頼朝の乳母)がいます。

一説には源義朝(みなもとの よしとも。頼朝の父)の隠し子とも言われ、何か都合が悪くて宗綱に預けたのかも知れません。

知家の初陣は保元元年(1156年)に勃発した保元の乱と思われます。15歳の知家は義朝に従い、勝利を収めました。

義朝の指揮下で奮戦する知家たち(イメージ)

しかし平治元年(1159年)8月に父・宗綱が没し、兄・朝綱が家督を継いで間もない12月に平治の乱が勃発。

この時も義朝から味方するよう求められたでしょう。しかし世代交代から間もない時期でもあり、源平いずれにもつかず静観したものと考えられます。

果たして義朝は永暦元年(1160年)に敗死、源氏一党は20年にわたる永い雌伏を強いられるのでした。

叱られることもあるけれど、元気に活躍する知家

そして治承4年(1180年)、知家は頼朝の挙兵にいち早く呼応。下野国茂木郡の地頭職を安堵されます。

一方、兄の朝綱は京都にいたため平清盛(演:松平健)に抑留され、元暦元年(1184年)に解放されるまで無聊をかこつことに。

知家は寿永2年(1183年)2月、頼朝に叛旗を翻す志田義広(しだ よしひろ。頼朝の叔父)を討つべく、義理の従兄である小山朝政(演:中村敦。小山政光の子)に従軍。野木宮合戦(現:栃木県野木町)でこれを撃破しました。

太寧寺所蔵 源範頼肖像(画像:Wikipedia)

その後も元暦元年(1184年)8月、源範頼(演:迫田孝也)の率いる平家追討軍に参加して武功を立てます。しかし頼朝に許可なく朝廷から官位(右衛門尉)を受けたことで、朝政ともども頼朝から罵倒されてしまうのでした。

右衛門尉友家
兵衛尉朝政
件の兩人鎭西へ下向之時、京に於て拝任令む事、駘馬之道草を喰うが如し。同じく以て下向す不可之状、件の如し。

※『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月15日条

【意訳】友家(知家)、そして朝政。お前ら……九州(平家討伐)へ行かせたと思ったら、京都で官位を受けているとはどういうことだ。

こういうのを「駄馬が道草を食う」と言うのだ。他の(勝手に官位を受けた)連中と同じく鎌倉に戻って来ることを許さんからな!

……かくして頼朝から鎌倉への出禁を食らってしまいましたが、しばらく後にほとぼりが冷め、鎌倉入りを許されています。

ここで彼らを本当に締め出したら、逆に鎌倉が滅ぼされかねませんからね。

奥州で繰り広げられる激闘(イメージ)

さて、気を取り直して文治5年(1189年)7月、奥州藤原氏の征伐する奥州合戦では千葉介常胤(演:岡本信人)と共に東海道大将軍を拝命。東北地方を太平洋側から攻め上がっていきました。

戦列に参加した兄の朝綱はこの奥州合戦で武功を立て、頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛されています。果たしてその活躍ぶりは大河ドラマで描かれるでしょうか。楽しみですね。

謀略で政敵を陥れ、常陸国守護に

さて、頼朝の下で順調に活躍していた知家ですが、下野国内では勢力拡大に限界を感じていたようです。

何せ国内には大豪族の小山一族がおり、また兄の朝綱と争っても意味がありません。

「よし、東の常陸国(現:茨城県)へ進出しよう!」

という事で建久4年(1193年)、知家は常陸で勢力を張っていた多気太郎義幹(たけ たろうよしもと)を陥れます。

まず、手の者に「知家が義幹を討とうとしている」という噂を流させました。すると義幹は用心のため兵を集めます。当然の反応ですね。

曽我兄弟の仇討ち。一時は頼朝の安否も危ぶまれた。秀湖「曽我兄弟復讐之図」

そして次は知家が義幹に直接「富士野で狼藉(曽我兄弟の仇討ち)が発生し、頼朝の身が危ないから、一緒に来てくれないか」と要請しました。

かねて知家の襲撃を警戒していた義幹は、罠と判断して要請を拒否。これが悪手でした。

「多気は謀叛を企んでいるぞ!兵を集めて城に立て籠もり、鎌倉殿のピンチに駆けつけないことが何よりの証拠だ!」

「そんなバカな!」

知家は鎌倉に義幹の謀叛を訴え出ます。裁判の結果、状況証拠などから義幹の有罪が確定。あわれ改易(所領没収)処分となってしまいます。

義幹さえ追い出してしまえば後はこっちのもの……知家は常陸国に所領を得て本拠地を移転。常陸国守護に任じられたのでした。

エピローグ

その後、建久10年(1199年)に頼朝が没すると「鎌倉殿の13人(十三人の合議制)」の一人として2代目将軍の源頼家(演:金子大地)を補佐します。

頼家の信任も篤く、後に北条氏との対立がエスカレートした建仁3年(1203年)。北条派の機先を制するべく頼家の叔父・阿野全成(演:新納慎也)を討ち取りました。

『大日本歴史錦絵』より、比企義員(能員)。頼家の乳母父でもあった

しかし北条氏の方がより上手で、頼家は最大の後ろ盾であった比企能員(演:佐藤二朗)を喪い、鎌倉から追放されてしまいます。

かくして鎌倉幕府の実権は北条氏に移っていくのですが、そんな中でも滅ぼされないだけの勢力を保ち続け、建保6年(1218年)3月3日に77歳で世を去ったのでした。

北条の敵か味方か……と言うなら敵となった知家ですが、知家のみならず彼らが味方したのは北条ではなく、鎌倉殿です。

喩えるなら扇の要のように、鎌倉殿あってこそ、御家人たちも利害を超えて力を合わせられたのでした。

これからますます盛り上がる「鎌倉殿の13人」において、ワイルドでカッコいい知家がどんな活躍を魅せてくれるのか、楽しみですね!

※参考文献:

高橋修 編『実像の中世武士団 北関東のもののふたち』高志書院、2010年8月 野口実『東国武士と京都』同成社、2015年10月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

トップ画像:NHKホームページより

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