裏山にキツネ、門前には子供たち…鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が伝える鎌倉殿の御所事情
鎌倉で暮らしていると、庭先や道端にタヌキが出没することがあります。それだけまだ自然環境が残されている証拠と言えるでしょう。ありがたいことです。
他にハクビシン(白鼻芯)やアライグマ(浣熊)なども多く出没しますが、よくタヌキと対にされがちなキツネは姿を見せてくれません。
近ごろはタヌキも減少傾向。見られたらラッキーかも(イメージ)
(まれにイノシシやニホンザルの出没情報もありますが、どっから来るんでしょうね)
そこまで(キツネの食糧が確保できるほど)鎌倉の自然が豊かでないゆえでしょうが、昔は鎌倉の都市部中央、それこそ源頼朝(みなもとの よりとも)らが住む御所でさえキツネが出没したとか。
今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、当時のキツネエピソードなど紹介したいと思います。
可愛い子ギツネが頼朝の寝所に……文治二年二月大四日壬子。營北山本。狐生子。其子入御丁臺。卜筮之所推不快。凡去年以來。頻有恠異。且去比有御夢想。貴僧一人參于御枕上。射山事。尤可奉重。不然者可有慎之由申之云々。仍若宮法眼參仕。修荒神供云々。
※『吾妻鏡』文治2年(1186年)2月3日条
時は文治2年(1186年)2月3日、御所の北山でキツネが子供を産み、その子ギツネが頼朝の寝所まで入ってくることがありました。
現代人であれば「可愛いな。珍しいから写真に撮ってSNSにアップしよう」などと盛り上がるのでしょうが、当時の人々はこれを怪異として驚きます。
「これは吉兆か凶兆か……すぐに占うのじゃ」
卜筮(ぼくぜい。卜=亀甲や獣骨を焼く占いと、筮=筮竹を使う占い)をもって占わせたところ、結果は「不快(こころよからず。凶)」と出ました。
「やはりな……」
「思い当たる節でも?」
「実は……」
頼朝は昨年からしばしば身の回りにおかしなことが起きていたこと、そして先日は夢枕に一人の僧侶が立ったと言います。
「その者は『法皇猊下(後白河法皇)をもっと尊重しなさい。さもなくば(障りがあろうから)身を慎みなさい』と申したのじゃ」
後白河法皇とはかねて政争を繰り広げ、謀叛を起こした源義経(よしつね)の扱いをめぐって「日本第一の大天狗」と批判した頼朝。内心では「少しやり過ぎたかも知れない」と気にしていたのかも知れません。
(流石に「大天狗」は言い過ぎたかな……)ちょっと悪いと思っている?頼朝(イメージ)
……仍日本第一大天狗者。更非他者歟云々。
※『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月15日条
そこで頼朝は鶴岡八幡宮別当の法眼円暁(ほうげんえんぎょう)を呼んで荒神供養を行わせたとのことでした。
大庭景能の庭先に狐の死骸が……文治四年十一月大十八日己酉。西風烈吹。雪降。今曉。於大庭平太景能宅庭。狐斃云々。依爲恠異以閇門云々。」……
※『吾妻鏡』文治4年(1188年)11月18日条
もう一つ。その日は西風が強く、雪が降っていたそうな。朝方、挙兵以来の長老である大庭平太景能(おおば へいたかげよし。景義)宅の庭に、狐が死んでいたそうです。
現代人なら「かわいそうに」と保健所に死体引き取りの連絡をするか、あるいは毛皮をとろうなんて手合いがいるかも知れませんね。
しかし頼朝はじめ平安時代の人々はこれも「怪異」として恐れ、大庭景能は閉門(門を閉ざして謹慎すること)を命じられます。
何も悪いことをしていないのに、ただ庭に迷い込んだ狐が死んだだけで罰を受けるとは、景能もやり切れない思いでしょう。
これは「特に裏づけはないけど、何かよからぬことをした結果として怪異が起きたのだろうから、とにかく身を慎むべし」という考えによるものです。
とにかく平安・鎌倉時代とは、そういう時代でした。
終わりに・のどかな鎌倉ちょっと怪異が続いたので、最後は狐じゃないけどほのぼのとしたエピソードで〆ましょう。
文治二年八月小十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被宛贈物。上人乍拝領之。於門外与放遊嬰兒云々。是請重源上人約諾。東大寺料爲勸進沙金。赴奥州。以此便路。巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者。上人一族也。
※『吾妻鏡』文治2年(1186年)8月16日条
鎌倉に滞在していた西行(さいぎょう)法師が御所から退出するシーン。
別れを惜しんだ頼朝が銀で作られた猫の置物を西行に贈ったところ、西行はそれを門前で遊んでいた子供たちにくれてやります。
西行の無欲ぶりを示すエピソードとして知られますが、ここで注目したいのは天下に名高き頼朝が住まう御所の門前で、当たり前のように子供たちが遊んでいるところ。
現代で言うなら、首相官邸のすぐ前で学校帰りの子供たちが缶蹴りとか縄跳びとかしているイメージでしょうか。次の瞬間、ガードマンが駆けつけて来そうですね。
裏山に狐が出る、門前で子供たちが遊んでいる……そんなのどかな鎌倉で、頼朝の武士団は助け合ったり殺し合ったり暮らしていたのでした。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、そんな情景が描かれていると嬉しいです。
※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan