浄土三部経の一つである「観無量寿経」が示す生死を超える道 (3/4ページ)

心に残る家族葬

後に法然(1133〜1212)がこの教えを特化して、専修念仏の教義を確立し浄土宗を開くことになる。法然が着目したように「観経」の真髄は「下品下生」にある。如来の慈悲の前に格差は無い。差があるのは生きる人間自身である。

韋提希が悟りに至ったのは釈迦がすべてを語り終えた後であり、語りの最後が「下品下生」であることは見逃せない。釈迦は観相の説明する前に韋提希に対して、死を免れない凡人に過ぎず、その心は弱いと指摘している。自分の落ち度は棚に上げて息子を責め、釈迦にさえ噛みついた韋提希は、病床でわがまま放題に振る舞う「病人さま」と変わらない。彼女の位は「下品下生」であったといえるだろう。

しかしこの世に「下品下生」でない人間、「下品中生」以上の人間などいるだろうか。死を突きつけられ絶望に陥った者が「下品下生」たる「病人さま」になるのはやむをえない。私たちも健康な時には理性的倫理的な態度を取っていても、いざがん宣告などを受ければ激しく狼狽する有様が目に浮かぶ。自分を棚に上げての悲嘆も凡人ならではである。韋提希は明日の私たちなのである。


■どうしようもない人間

仏教学者・紀野一義(1922〜2013)は「親鸞上人は、観無量寿経に『下品下生』ととりあげられ、恵心僧都によって『極重悪人』と打ち出された、あの『人間のどうしようもなさ』に真向からぶつかって行った」と述べている。

韋提希を頭ごなしに責められるほど上等な人間などいない。私たちも死に直面した時、嘆き悲しみ、自分のやってきた所業などは棚に上げてすべての人に呪うだろう。「観経」は韋提希を通じて「人間のどうしようもなさ」を指摘し、それでも救いはある、生死は超越できるのだと説いているのである。

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