【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その2

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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その2

1186(文治2)年3月18日、「鎌倉殿」こと源頼朝と大進局の間に生まれた貞暁(じょうぎょう)。しかし、頼朝の正室北条政子は、北条家の血を引かない男子を政敵と見なし、断固としてその存在を許しませんでした。

政子の怨みをかった貞暁は7歳の時、鎌倉を逃れるように上洛し、仁和寺で出家します。

[その2]では、仁和寺勝宝院の隆暁法印のもとで仏道修行に励む貞暁と、その間に骨肉の争いで次々と粛清されていく源氏一門についてお話しします。

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【秘話 鎌倉殿の13人】源頼朝最後の男系男子・貞暁(じょうぎょう)の波乱に満ちた人生と北条政子との因縁:その1

貞暁の上洛と出家

1192(建久3)年6月15日、貞暁は大進局を伊勢に残し、京都仁和寺の龍宝院に入りました。勝宝院は源頼朝の義弟・一条能保(いちじょうよしやす)の養子である隆暁法印(りゅうぎょうほういん)が住職を務めており、その弟子となったのです。ちなみに、貞暁という法号は隆暁に弟子入りしてから名乗ったとされます。

貞暁:母上、これから私は僧になります。しばしお会いすることはかないません。どうか達者でお過ごしください。

当時の仁和寺は、広大な敷地の中に数多くの頭塔寺院(子院)を有する大寺です。隆暁はその中でも門跡寺院の住職であるとともに、後に東寺の副住職も務めたトップクラスの高僧でした。

その養父である一条能保は、頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻としていた公家で、頼朝から格別な信用を得ていた人物です。後には北条時政の後任として京都守護を任され、義経探索の指揮を執るなど、頼朝の京都におけるキーパーソンとして活躍しました。また、能保は後白河法皇の信任も厚く、朝廷と幕府双方に広い人脈を持っていたのです。

頼朝:能保殿、どうか貞暁のことを頼み申す。高僧と誉れ高い隆暁殿のもとで立派な僧にしてやってくれ。

頼朝は、そんな能保と隆暁法印に貞暁を託したのです。このことからも、貞暁に対する想いが並々のものではなかったことが推測されます。

隆暁は、京都が未曾有の疫病に襲われた際、死臭漂う京都の町を歩きまわり、斃れている死者の額に梵字を記し、供養を行ったと『方丈記』に記録されています。

貞暁が、自らが疫病にかかる危険を顧みず、人々のために祈りをささげる師・隆暁について懸命に仏道の修業を重ねたことは想像に難くありません。

俗世から離れ、懸命に仏道修行に励む貞観。(イメージ・写真:写真AC)

骨肉の争いの末、消えていく源氏一族

平氏追討などで功績をあげた源範頼。頼朝に謀反を疑われ失脚した。(写真:Wikipedia)

貞暁が仁和寺で仏道修行に励んでいる間、鎌倉では源氏一門が、骨肉の争いの末、次々と命を落としていきました。

先ずは、1193(建久4)年5月。頼朝の弟として幕府内で重きをなしていた源範頼[源義朝六男]が、謀反の疑いで失脚します。頼朝の兄弟の内、最も頼朝に忠実だった範頼が本当に謀反を計画したのかは不明のままです。

ただ、蘇我兄弟の仇討ち事件が起こった際、頼朝が討たれたとの誤報が届き、嘆き悲しむ政子に対し、範頼は慰めと励ましの言葉をかけます。

範頼:もし兄上が討たれたとしても、鎌倉にはこの範頼がおります。どうかご安心召されよ。

この言葉を政子は、鎌倉に帰還した頼朝に伝えたのです。

頼朝:範頼め。普段は大人しく振舞っていても、本心は余に代わる野望を抱いていたのか。

範頼は頼朝に対し叛意がないことを懸命に釈明しますが、伊豆に流罪になりました。そして、配流先の修善寺で誅殺されたとの説が有力です。

1199(建久10)年1月13日、貞暁の父初代鎌倉幕府将軍の源頼朝(享年52)がその生涯を閉じます。それに伴い、18歳の嫡男頼家が家督を相続し、第二代鎌倉殿(将軍就任は3年後)となりました。

幕府は若い将軍を補佐するために、北条時政・北条義時・梶原景時をはじめとする有力御家人による「十三人の合議制」を制定し、頼家が直接訴訟を裁断することを停止します。これに反発した頼家は、自分と比企宗員ら5人の若い近習たちのみに権力が集中する独裁体制を構築しました。

鎌倉幕府初代執権の北条時政。源頼家の排除に成功するが、後に政子・義時により追放された。(写真:Wikipedia)

時政:どうも頼家公は従来の慣例を無視して、全てを独裁される傾向にあるようじゃ。ここは、頼朝公以来の我ら宿老が幕府を束ねればなるまい。

頼家:時政め。いくら母の父であろうが、この頼家をないがしろにするにもほどがある。母も母だ。まずは北条の力を削がねばならぬ。

1203(建仁3)年5月、頼朝の弟で唯一生き残っていた阿野全成(あのぜんじょう)[源義朝七男]が、頼家から謀反の罪を問われ常陸国に配流のうえ誅殺されました。この時、頼家は全成の妻で政子の妹である阿波局を捕えようとします。しかし、政子は断固としてこれを拒否したといいます。

しかし、乳母と正妻の一族である比企能員(ひきよしかず)とともに、源氏一族と北条氏に圧力を加えていく頼家の動向は、やがて頼家自身を破滅に追い込んでいくこととなるのです。

時政:能員め。頼家公に取り入り、幕政を仕切ろうとする魂胆は読めた。今こそ、その禍根を断つべき時だ。

頼家が全成を誅殺した2ヶ月後、頼家が病により危篤状態に陥ります。その機に乗じて、北条時政が頼家の妻の父・比企能員を謀殺し、比企一族を滅ぼしてしまいました。わずか6歳の頼家長男一幡も数か月後に捕らえられ義時の郎党に刺殺されたといいます。

頼家:おのれ時政め、北条の者どもめ。比企のみならず、我が子一幡までも手にかけるとは。許さじ!

意識が回復した頼家は、比企一族と一幡が殺されたことを知り激怒します。太刀を手に立ち上がるものの、政子に押さえ付けられ、時政によって伊豆修善寺に幽閉されてしまいました。そして、1203(建仁3)年11月、時政の兵たちによって殺害されてしまうのです。

鎌倉幕府二代将軍源頼家。政子の実家北条氏と対立の末、伊豆修善寺で謀殺された。(写真:Wikipedia)

頼家の殺害は、幕府内権力が北条氏から比企氏へわたることを怖れた時政・義時・政子によって主導されたことは間違いないでしょう。こうして、源氏一族男子で残ったのは、頼家の跡を継ぎ三代将軍となった源実朝と頼家の子(公暁・栄実・禅暁)、そして貞暁など数人だけとなったのでした。

一方、この間、京都で仏道修行に励む貞暁の周りでも不幸が続きました。1197(建久8)年10月13日、貞暁の力強い庇護者であった一条能保が亡くなります。そして、1206(元久3)年には隆暁法印が仏道に捧げた生涯を閉じたのです。

【その2】はここまで。【その3】では、政子の上洛に伴う貞暁の高野山転居の真相。そして、政子の再上洛の際に起こる貞暁の壮絶な行動。その後の貞暁と政子の関係についてお話ししましょう。

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