与えられるものが何もなくても人は人を幸せにできる 無財の七施

心に残る家族葬

与えられるものが何もなくても人は人を幸せにできる 無財の七施

生・老・病・死。仏教では生きることが苦であるとし、そこからの脱出「解脱」を説く。そのためには執着を捨て、長い出家生活を送らなくてはならない。しかし普通の民はそうはいかない。解脱とはいかなくても、現実に生活しているこの世が、少しでも楽しく優しさに満ちた世界になれば「苦」を滅ぼすこともできるかもしれない。それは自分を捨て、他者に与えられるものを与えることである。

■自らの執着を捨て他者に与える 布施

仏教の教えは「執着を捨てよ」に尽きる。物を持っているから失うことを恐れる。死が恐ろしいのも、生にしがみついているからである。まず捨てることが仏道の第一歩である。ただ捨てるだけでは自分が救われるだけで終わってしまう。他者に「与える」ことでその他者にも恩恵がもたらされる。自分への執着を捨て、他者に笑顔を見せることや譲り合うことで魂が磨かれ、安らぎを得ることができるという。

そのための方法が、仏になるための六つの行「六波羅蜜」のひとつで最初に説かれる行「布施」である。布施には物を与える「財施」、仏法を施す「法施」、寄り添って安心させる「無畏施」がある。

■物もお金もなくても布施はできる

しかし仏法など知らない、物もお金もない、寄り添うなんてできない。そんな何もない人たちに対して「雑宝蔵経」は与えるための財産や物がなくともできる施し「無財の七施」を説いている。この七施とは「和顔施」「眼施」「心施」「言辞施」「身施」「床座施」「房舎施」である。いずれも物がなくても人に施しを与えることができる善行である。「無財の七施」によって自己中心的に生きている人は自己を捨て、他者に安らぎを与えられる。そうした結果は心の底に蓄えられ(熏習)、魂が磨かれていくのである。

■無財の七施 「和顔施」

「和顔施」(和顔悦色施)は笑顔や穏やかな表情で人に接すること。これは他者に笑顔を与えることでもある。いつも笑顔を絶やさない人は周りの人を穏やかにさせる。「無財の七施」の中でも和顔施は秀逸である。笑顔を見せることが悟りにつながるというのだから。仏像は皆、微笑をたたえている。笑みは解脱の証でもあるのだ。

■無財の七施 「眼施」

「眼施」は優しいまなざしを向けて人と接すること。「目は口ほどに物を言う」というが、笑顔を浮かべても目が笑っていない時にはわかるものである。決して上から目線などにはならず、まっすぐその人を見つめる偽りの無いまなざしを、病める人は求めている。

■無財の七施 「心施」

「心施」は思いやりと気配り、人の気持ちを理解し受け入れること。地味な布施であるが大切なことだ。医療や介護の現場では時折、患者・利用者につらく当たったり暴力すら振るう事件が報道される。彼らは自分の言うことを聞かない、思い通りにならないことに憤慨して行為に及んでしまうことが多い。他者より自分を中心に考えるとこうなる。自分の心を他者に与える、施す心施を学ばなければならない。

■無財の七施 「言辞施」

「言辞施」は優しい言葉で人に接すること。下品で乱暴な言葉を使っているとその通りの人間になるし、言葉で人を殺すこともできる。一方で優しい言葉、温かい言葉に救われることもある。SNSなどの発達した現代では、不用意な言葉で人を傷つける誹謗中傷や、洪水のように溢れる情報、宣伝など、言葉のたれ流しといった状態である。現代ほど言葉の大切さが問われる時代はない。

■無財の七施 「身施」

「身施」は困っている人を助けること。ありきたりのように見えるが、「自分さえ良ければよい」の執着を捨てる基本かつ重要な行である。医療行為からボランティア活動なども含まれるだろう。また立ち居振る舞いを整え、美しい所作で生活することも身施といえる。人を見た目で判断してはならないが、やはりだらしない所作や服装は緊張感を奪い、下品な行動につながっていく。逆にきちんとした所作、服装は周囲の人にも凛とした空気を与えるものである。

■無財の七施 「房舎施」

「房舎施」は客を厚くもてなしたり、宿泊の場を提供することである。日本仏教が最も足りないところでもある。現代では見も知らぬ人を家に招き入れるのは困難であるし危険だが、キリスト教団体は貧困層への支援、炊き出しなどの社会活動に積極的である。それと比較すると寺院はこうした社会活動には消極的に思える。震災などの突発的な災害に対応することはあるものの、日常の貧困層などへの施しには積極的とはいえないと思われる。葬儀、法事などで多忙ということはあるかもしれないが、今後考えるべき問題だろう。

■無財の七施 「床座施」

「床座施」は席などを譲ること。電車やバスで病人、妊婦、お年寄りなどに席を譲る行為などはわかりやすい。これも自分が確保した、つまり限定的な所有物を他者に与える、施すことである。「身施」とは違うのかとの疑問もあるかと思うが、ある論文では、仏教は座席譲渡を単に他者のための離席行動とする以上に、「譲る」という精神性に重きを置いているからではないかと指摘し、その背景には仏教の重要な思想である「無執着」があり、「譲り合いの精神」こそ、床座施の本質ではないかと考察している(山本佑実/加藤久美子/菅村玄二「『無財の七施』にみる日本的な向社会的行動」『関西大学心理学研究』第5号 関西大学大学院心理学研究科(2014))

■時間も場所も問わない魂の行 無財の七施

「無財の七施」は日常生活のいつでもどこでもできる。特に絶望感が漂う病床や病室、避難場所などで最も不足しており、必要とされるのがこの七施ではないだろうか。そして決して「やってあげる」などとは思わず、ただひたすら人の幸せのために尽くすことが布施であることを忘れてはいけない。「無財の七施」は「悟り」や神秘体験のような劇的な宗教体験ではないかもしれないが、地道で厳しくも確実に魂を浄化させる「行」である。

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