「1日3食」は、戦乱と災害復興から生まれた習慣だった。やっぱり腹が減っては戦はできぬ…!
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食文化
想像を絶する「1日2食」の時代
日本人の食生活の基本リズムである「1日3食」の習慣はいつから始まったのでしょうか。
今回はその食生活のリズムが定着していった流れを振り返ってみます。
平安時代くらいまでの日本では、日の出前から起きて仕事を行い、10時くらいまで仕事をした後に家に帰って朝と昼を合わせた(現代でいうブランチといわれるような)時間帯に食事をするのが習慣となっていました。
遡りますが、奈良時代も同じように早朝からお昼ごろまで働き、仕事が終わってから宴会をするというのが習慣づいていました。
これは役人だけではなく、上流階級でも同様でした。
例えば、後醍醐天皇は朝ご飯を正午に、夕飯を16時頃に食べていたといわれています。
3食食べている身からすると、朝起きてからご飯を食べるまでの間が長く感じられますね。一方、朝ご飯からお昼ご飯までの時間は短く、そしてそれ以降は翌日まで何も食べないというのは真似できる気がしませんね。
戦乱と災害復興とはいえ、日の出を目安に日々の生活を行い、日没になったら就寝するという生活は理にかなっているとも言えます。
明かりや暖を確保するための燃料の節約にもなりますし、空調機などない時代のこと、夏の暑い時期は朝の涼しい時間帯に仕事を片づけるのが最も合理的です。
睡眠時間の短さが問題になる現代と比べると、この時代の生活は体本来のリズムにも合っていたと言えそうですね。
鎌倉時代の武士も同様に基本的には1日2食でしたが、戦が長期になると軽い食事を持ち歩いて食べていました。この時に重宝されていたのが、おにぎりといわれています。
お弁当や携帯食の始まりです。やはり「腹が減っては」なんとやらですね。人間は、日々の生活については自然のサイクルに合わせていけるものの、戦や労働という、自然のサイクルにそぐわない活動ろするようになると、特別にエネルギーの補給が必要になるのでしょう。
このように、武士のエネルギー補給のための食事が大きな意味を持つようになり、最終的に多くの人々が「3食」採るようになったのは、江戸の大火と菜種油の普及が大きなきっかけになったと言われています。
大火によって焼け野原となった江戸の町を復興させるために、各地から大工や左官職人が集まりました。しかし、肉体労働者は1日2食では体力が持たず、家に毎度変えるわけにも行きません。そこで、そうしたニーズを踏まえて江戸の町に生まれたのが飯屋です。
菜種油で増えた「夜の時間」こうしたお店が、災害復興のために働いていた職人たちに、お昼過ぎにご飯を提供したことにより、「1日3食」が武士のみならず一般の人々にも広まっていくきっかけになったと考えられています。
1日3食の習慣が広まったもう一つの要因「菜種油」については、この菜種油のおかげで「明かり」が普及したことが挙げられます。
それまで明かりに使われる菜種油は高級品でした。よって、人々は基本的に日が暮れたら何もできませんでした。菜種油を購入できるのも、上流階級の人たちに限られていたのです。
よって、人々は日暮れと共に寝る以外の選択肢はなかったのですが、だんだん物流が発展していったことにより菜種油も値下がりし、庶民に普及していきます。
そうして、夜なべ仕事に使える時間や遊べる時間が増え、活動時間が長くなることによっていきました。
このことから、必然的に食事の回数も3回に増えたのではといわれています。
今でこそ、1日3食が普通のように感じられますが、それも時代に沿ってどんどん変化していたことが分かります。
私たちにとっては、「食べる」という原始的・本能的な営みも、明かりの存在や、戦・労働などの要素によって、その在り方が大きく左右されていたことが分かります。
「1日3食」は体にいい、として何かと奨励されがちですが、それは時代毎の生活習慣の中で、私たちの体がそういうふうにできているから、なのでしょう。
生活習慣が異なれば、「1日2食」でもよいのです。「1日3食」をよしとする見方も、相対化することが十分可能なんですね。
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