千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは

心に残る家族葬

千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは

苦境に陥っている人や、死に直面している人に対し、心の支えになればと様々な祈りの形があった。千羽鶴、千人針、お百度参り…これらの行為は科学的には全く無意味である。それでも人は人のために祈る。しかしその人のためにと想うあまり方向性を間違うことがある。正しい祈りの形とは。

■千羽鶴以外に千人針、お百度参りなど祈りにも様々な形がある

「千羽鶴」は病床の身にある家族や友人へ治癒を祈願して送るのが、祈りの形として最もポピュラーなものである。他にも平和祈念や、後述のように批判を受けることもあるが、災害の被災地などに送られることもある。
戦時中は出征する夫や息子に生還を祈るための「千人針」が盛んに行われた。腹巻などに千人の女性が一針ずつ糸を縫って結び目をつける。これを身に着けると戦場での弾除けになるとされた。

こうした切実な祈願の方法として「お百度参り」がある。神社仏閣に百日間毎日参拝する「百日詣」が次第に簡略化され、一日に百度の参拝するお百度参りが広まった。入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。これを「お百度を踏む」という。裸足でやると効果が高いとも言われるが、これは苦行を課すことの対価を期待してのことだろう。ドラマなどでは冬の寒い時期に、子のためにお百度を踏む親の姿が描かれたりする。

■祈りとは

真冬でなくても裸足で百回参拝するのは楽ではない。千羽鶴も千人針もその人を想っての純粋な行為である。そうした祈りや願いは科学、医学が発達しても変わることはない。そしてその想いが届くこともある。例えば入院先のベッドの傍らに家族友人からの千羽鶴があれば嬉しいものではないか。一羽一羽に自分を案じてくれる思いが感じられるだろう。

昔、薬品メーカーのCMに、入院中の母親を小学生の息子が見舞うという話があった。息子は花を買いたいが、子供のおこづかいで買えるものではなかった。そこで彼は花の絵を描いて母親にプレゼントした。病院を後にする息子の背中を見つめる母親の眼には、冒頭の無気力な眼と打って変わって強い意思が宿ったかのようだった。実に秀逸な演出である。親なら誰しもあの花の絵を見れば、むざむざ病気に負けるわけにはいかないと決意するだろう。祈りにはどんな高価な品物も大金も及ばない力を持つことがある。千羽鶴も千人針、お百度参りも決して無駄な迷信ではない。

■千羽鶴は不要論とは?問題点は?

だがその上で、被災地や戦場などに送るのはどうだろうか。純粋な想いが現地の人にとってはありがた迷惑、好意の押し付けに陥る危険はないか。

ウクライナ情勢をめぐり千羽鶴不要論が起こっている。現地の人達を励まそうと千羽鶴を送ろうという運動に対して「2ちゃんねる」創始者がツイッターで千羽鶴に対し「無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは、恥ずかしいこと」と批判。これに「メンタリスト」を名乗る著名人が「狂気」だと同調した。

確かに現地で求められるのは見知らぬ国、地域への「想い」ではない。その時、必要な何かである。本当に被災者や戦争被害者のことを思うなら、まず現地の自治体などにアクセスして何が不足しているのかを確認することだ。かわいそうだ何かしてやりたい。その感情に振り回されてはいけない。無条件に喜ばれるアイテムなど支援金くらいである。千羽鶴が喜ばれる状況も迷惑な状況もある。送られる人の気持ちを考えないことを自己満足という。その意味では千羽鶴批判の両氏は間違えてはいない。ただ両氏の表現はかなり乱暴で、ただの悪口で終わっている。影響力のある立場なのだから、純粋な「想い」そのものは評価し、正しい方向に導くのが彼らの努めだろう。「想い」そのものまで否定するような言い方だったためか、あるタレントが「送った人が傷つく」と反論していた。しかしこちらはこちらで「送られた人」より「送った人」視点で終わっている。そのタレントと「送った人」は「送られた人」の想いを、批判した両氏は「送った人」の想いを、それぞれ無視している。なぜこのような視点に陥ってしまうのか。

■「私」の存在と菩薩行

「『私』はこんなに心配している」「『私は』の思いを伝えたい」「『私』はそのような行為は認めない」

いずれも「私」が誤謬の元である。他者のことを考えているつもりでも、「『私』が他者のことを考えている」時点で結局は自己が中心になってしまう。自分を捨て、他者のことを考えよ。これが仏教における「無我」と「縁起」の理であり、ここから「菩薩」の思想が生まれた。

仏教では「無我」を説くが、自分というものが無いというより、むしろすべての存在が自分であるといえる。私たちは親、祖父母、水や空気に大地、天の恵み、どれひとつ欠けても存在できない。すべてが自分を構成する要素である。このつながりが「縁起」である。そのように考えると、他者もまた自分ということになり、他者を救うことが自分を救うことになる。だが「私」が「他者」を救うのではない。「私=他者」であることを悟り「私」を消して他者そのものになる。これが菩薩行である。

前世の仏陀が飢えた虎に身を捧げた「捨身飼虎」の逸話は菩薩行をよく表している。このときの仏陀の想いは「私」ではなく虎にある。「私」に執着している限り虎に身を捧げることなど恐ろしくてできない。仏陀は「私」を消して虎そのものとなり、かつて「私」だった「それ」をエサとしたのだった。

■正しい祈りの形

苦境に陥っている人を想い、祈ることは尊い。しかし「私」に執着している限り、その祈りが他者不在の自己満足で終わる可能性は大いにある。またそれを指摘、批判する方も「私が正しい」という自己満足に絡み取られてしまう。菩薩行などと難しいことを考えなくても、まず他者の気持ちを慮ることが大切である。自分を消して他者になりきり他者の想いと同調する。それが正しい他者への祈りの形ではないだろうか。

「千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る