千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは (1/3ページ)

心に残る家族葬

千羽鶴はありがた迷惑か?千羽鶴不要論から考える正しい「祈り」とは

苦境に陥っている人や、死に直面している人に対し、心の支えになればと様々な祈りの形があった。千羽鶴、千人針、お百度参り…これらの行為は科学的には全く無意味である。それでも人は人のために祈る。しかしその人のためにと想うあまり方向性を間違うことがある。正しい祈りの形とは。

■千羽鶴以外に千人針、お百度参りなど祈りにも様々な形がある

「千羽鶴」は病床の身にある家族や友人へ治癒を祈願して送るのが、祈りの形として最もポピュラーなものである。他にも平和祈念や、後述のように批判を受けることもあるが、災害の被災地などに送られることもある。
戦時中は出征する夫や息子に生還を祈るための「千人針」が盛んに行われた。腹巻などに千人の女性が一針ずつ糸を縫って結び目をつける。これを身に着けると戦場での弾除けになるとされた。

こうした切実な祈願の方法として「お百度参り」がある。神社仏閣に百日間毎日参拝する「百日詣」が次第に簡略化され、一日に百度の参拝するお百度参りが広まった。入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。これを「お百度を踏む」という。裸足でやると効果が高いとも言われるが、これは苦行を課すことの対価を期待してのことだろう。ドラマなどでは冬の寒い時期に、子のためにお百度を踏む親の姿が描かれたりする。

■祈りとは

真冬でなくても裸足で百回参拝するのは楽ではない。千羽鶴も千人針もその人を想っての純粋な行為である。そうした祈りや願いは科学、医学が発達しても変わることはない。そしてその想いが届くこともある。例えば入院先のベッドの傍らに家族友人からの千羽鶴があれば嬉しいものではないか。一羽一羽に自分を案じてくれる思いが感じられるだろう。

昔、薬品メーカーのCMに、入院中の母親を小学生の息子が見舞うという話があった。息子は花を買いたいが、子供のおこづかいで買えるものではなかった。そこで彼は花の絵を描いて母親にプレゼントした。病院を後にする息子の背中を見つめる母親の眼には、冒頭の無気力な眼と打って変わって強い意思が宿ったかのようだった。実に秀逸な演出である。親なら誰しもあの花の絵を見れば、むざむざ病気に負けるわけにはいかないと決意するだろう。

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