日本の在家仏教を疑問に感じ仏教追求のためチベットに渡った河口慧海 (2/3ページ)
河口慧海はサンスクリット語仏典、チベット語仏典を初め、仏像仏具、植物標本などを持ち帰り、一連の記録である「西域旅行記」はその民俗学的価値が高く評価されている。
■日本仏教を批判した河口慧海
河口慧海の名は日本人として初めてチベットに入国した探検家であり、名を知る者にとっては近代の三蔵法師といったイメージが強い。しかし河口慧海は本来探検家ではなく仏僧であり仏教学者である。チベット探訪の目的は仏教の原点を求めてのことだった。帰国後、河口慧海は還俗し「在家僧」を宣言。大正15年(1926)には主著「在家仏教」を著し、従来の日本仏教を批判した。
■日本仏教批判と在家仏教運動
河口慧海は日本の僧侶は衣・食・住とも世の人々より贅沢な暮らしをし、出家と言いながら不飲酒、不肉食など在家が守るべき五戒すら守っておらず出家の資格などない。これでは世の人々の規範にはならないと指弾し、現代において本当の出家僧などは存在しないとまで言う。さらに河口慧海は天台宗、真言宗、日蓮宗、禅、浄土など、日本仏教の教義が本来の釈迦仏教からいかに乖離しているかを、サンスクリット原典などの読解を基本に文献学的にその誤謬を指摘し、戒律を重視する釈迦仏教に帰るべきであると主張した。その釈迦仏教の担い手は、戒律を守らず、そもそもの教えも誤謬だらけの自称出家僧ではない。在家の者が家業に励みながら、在家の戒律・五戒を堅持する生活の中で実現するものだとした。そうした生活の果てに人々は菩提心を得ることができ菩薩となり、世の中が浄化されていくことを期待した。
■躍動する在家仏教団体
河口慧海の在家仏教運動は彼の死後はさほど盛り上がることなく終わったが、彼の出家から在家への思想は大きな潮流となった。特に日蓮系の在家集団の動きはめざましく、長松日扇(1817〜90)の本門仏立講、田中智学(1861〜1939)の国柱会、西田無学(1850~1918)の在家仏教思想など、それぞれ独自の在家仏教運動を展開した。それらは現代における創価学会、霊友会、立正佼成会など新宗教にもつながる。