日本の在家仏教を疑問に感じ仏教追求のためチベットに渡った河口慧海 (1/3ページ)

心に残る家族葬

日本の在家仏教を疑問に感じ仏教追求のためチベットに渡った河口慧海

日本仏教は在家仏教と言われる。出家と言いながらも本当の意味で出家生活をしてる者はほとんどいない。国内ではたんに僧侶になることを出家と捉える人も多いのではないか。そうした既存の仏教界の欺瞞を鋭く批判し、仏教本来の道を追究せんとする河口慧海の情熱は地の果てチベットにまで及んだ。

■河口慧海の生い立ちからチベットに渡るまで

河口慧海は慶応2年(1866)1月12日、和州堺(現:大阪府堺市)に生まれた。21歳で哲学館(現:東洋大学)に入学。井上円了(1875〜1949)が創立した哲学を学ぶための私立学校、哲学館は多くの異才鬼才を輩出している。河口慧海もそのひとりだった。24歳で黄檗宗の僧として出家し「慧海」の名を得て、東京・本所の五百羅漢寺の住職となる。しかし寺での法事などの雑事で、研究と修養ができない環境に嫌気がさし寺を出た。一切経を読破したという河口慧海は仏教経典に対して大いに疑問を抱く。日本仏教における経典は中国で訳された漢訳のものが使用されている。インドで生まれ中国にもたらされた仏教は、鳩摩羅什、玄奘三蔵らによって漢訳された。しかし直訳というわけではない。中国にはない「空」の概念を老荘思想の「無」と同義であるとされるなど、紆余曲折を経て独特の教義に変化するものもあった。日本に伝来したのはインドの原始仏教とは異なる中国仏教だったのである。河口慧海は漢訳経典の源流を求めた。しかしインドではすでに仏教は絶滅している。河口慧海はサンスクリット原典から忠実に訳された経典、さらに原典そのものまであるとされるチベットへの入国を志した。

■河口慧海、チベットへ

河口慧海は日本人として初めてチベットに入国、滞在した人物である。当時チベットは鎖国政策をとっていたが、国境の守備を避けるためネパールを超え西側から入る迂回路を取るなどし、明治33年(1900)決死の入国を果たした。明治30年(1897)に日本を出国して以来、3年間を要した。チベットでは日本人であることを伏せ、学僧として厳しい戒律の下で修行に励んだ。チベットの最高階級である僧侶になるのは容易なことではないが、時の法王ダライ・ラマ13世に謁見するまでになった。しかし日本人であることが露顕しそうになり出国。10年後に再びチベットを訪れた。

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