鉄砲 VS 弓、達人同士の一騎打ちの行方は?戦国時代、織田信長に仕えた砲術家・橋本一巴の逸話

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鉄砲 VS 弓、達人同士の一騎打ちの行方は?戦国時代、織田信長に仕えた砲術家・橋本一巴の逸話

戦国時代を代表する英雄の一人・織田信長(おだ のぶなが)。もちろん異論は認めます。

信長と言えば、多くのファンが当時の新兵器であった鉄砲(火縄銃)を連想することでしょう。若い頃から興味を持ってその有用性を重視しており、自身も砲術を学んでいたとか。

鉄砲隊を駆使して大勝利を収めたとされる信長。「長篠合戦図屏風」より

そこで今回は、信長に鉄砲を伝授した師匠・橋本一巴(はしもと いっぱ)のエピソードを紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。

織田鉄砲隊の先駆けとして活躍

橋本一巴は生年不詳、信長の故郷である尾張国の片原一色城を治めた橋本伊賀守俊信(いがのかみ としのぶ)の子と言われています。

【片原一色城 歴代城主】

橋本正高(まさたか)-橋本寛勢(ひろなり)-橋本正秀(まさひで)-橋本俊信-橋本一巴-橋本道一(みちかず)―橋本道正(みちまさ)―橋本正太(まさもと。慶長20・1615年の一国一城令により廃城)

※諸説あり。代々「伊賀守」を襲名。

出自については諸説あり、一説には鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)の子孫とか。

後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府を翻弄し、足利尊氏を悩ませた楠木正成(右)

型破りな戦術で鎌倉幕府の軍勢を翻弄した正成の子孫が、旧来の戦術を大きく変えた火縄銃の名手だったとしたら、実にピッタリですね。

『国友鉄炮記』によると天文18年(1549年)に織田家へ臣従、信長に砲術を指南したと言われます。

「これはよい。さっそく500挺ばかり作らせよ。代金は弾むぞ!」

「ははあ」

こうして信長のトレードマークとも言える鉄砲隊を編成、織田家中で頭角を現していきました。

また子供にも恵まれ、橋本道一橋本大膳(だいぜん。矢合城主)それぞれに活躍。一族で尾張西境の守備に当たります。


鉄炮と弓、達人同士の一騎討ち

そんな橋本一巴は永禄元年(1558年)、信長に従って織田一族(従兄弟)の織田伊勢守信賢(いせのかみ のぶかた)と対決。後世に言う浮野の合戦に臨みました。

戦闘は次第に信長の優勢となり、7月12日の正午ごろ、一巴は退く敵の追撃中に弓の名手である林弥七郎(はやし やしちろう)を発見します。

「そこにおわすは、林殿とお見受けした。我こそは橋本伊賀守、尋常に勝負いたせ!」

弥七郎は足を止め、背を向けたまま答えました。

「よかろう。相手にとって不足はない……が、そなたほどの達人なれば、こちらも手加減はできぬぞ。よいか」

「心得た……いつでも参られよ」

「ならば!」

一巴(火縄銃)と弥七郎(弓)一騎討ち(イメージ)

次の瞬間、弥七郎は四寸ばかり(約12センチ)もの大きな矢根(やのね。鏃)をつけた矢をつがえ、振り向きざまに射放ちます。

同じく一巴も既に装填しておいた二つ弾(ふたつだま。一度に二発の弾を装填すること)を放ちました。

「「ぐ……っ!」」

弥七郎の矢は一巴の脇腹をえぐり、一巴の弾は弥七郎に命中。両者とも相討ちとなります。

「橋本殿、助太刀致すぞ!」

そこへやって来た信長の小姓である佐脇藤八(さわき とうはち)が弥七郎の首級を奪おうと近づいたところ、弥七郎は倒れたまま応戦。

抜刀するや藤八の左ひじを籠手もろとも斬り落としたものの、藤八は怯むことなく弥七郎の首級を上げたのでした。

「林弥七郎、この佐脇藤八が討ちとったり!」

この日は信長方の大勝利、清州城へと凱旋した信長は翌日に首実検を行ったところ、1,250余もの首級が集まったということです。

終わりに

合戦のあり方を大きく変えた火縄銃(画像:Wikipedia)

一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけたる矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと射立て候。もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
さて、其の日、清洲へ御人数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず千弐百五十余りあり。

※『信長公記』浮野合戦の事

この一騎討ちで一巴が死んだか否かは明記されていないものの、仮に一命をとりとめたにせよ後遺症は残ったのか、歴史の表舞台からは姿を消します。

『信長公記』の原文(戦さの現場)では「助けないぞ(たすけまじき)」「心得た(心得候)」だけのやりとりであり、たった一言に込められた意味を読み取るとは、達人同士通じるものがあったのかも知れませんね。

かくして一巴が斃れた後もその砲術は息子や織田家の誇る鉄砲隊に受け継がれ、数々の活躍を重ねていくのですが、それらのエピソードもまた紹介したいと思います。

※参考文献:

宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』吉川弘文館、2002年11月 和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』中央公論新社、2018年8月

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