こんな人生ツラすぎる…平清盛に捨てられ、娘も奪われた巫女・厳島内侍が土肥実平との結婚に至るまで
古来「男心と秋の空」とはよく言ったもので、コロコロと移り変わる飽きっぽさを表しています。
昨日惚れたと思ったら、今日は早くも乗り換えて、どうせ明日は別の人……とまぁこんな具合。アテにならないったらありゃしません。
まして権力者なんて、世の中何でも我が意のままなどと思っていますから、気まぐれぶりも人一倍。
そこで今回は平清盛(たいらの きよもり)に振り回された厳島内侍(いつくしまのないじ)を紹介。
果たして彼女は、どんな被害を受けたのでしょうか?
美貌を見初められ、清盛の妾となるが……厳島内侍は、その名前(実名は不詳)が示す通り厳島神社(広島県廿日市市)に奉職する巫女。
内侍とは、参拝客をもてなすために歌や舞楽などを披露する役職でした。さしづめ神社のお抱え歌手&ダンサーと言ったところでしょうか(以下、個人名として厳島内侍で統一)。もちろん清盛も歓待を受け、彼女を見初めて妾とします。
当時の清盛は平治の乱(平治元・1159〜永暦元・1160年)で政敵らを一掃、まさに向かうところ敵なしの絶頂期。
彼女としても、いつまで芸能稼業が続けられるとも分かりませんし、引退後のパトロン候補として悪い相手ではありません。
(まぁ、下手に断ったら後で面倒そうだし、そもそも条件だけならこれ以上の相手はいない=断る理由がないでしょう)
で、晴れて清盛の寵愛を受けた厳島内侍。しかし男心は……の例に洩れず、あっさり飽きてしまった清盛は、彼女を家人の平盛俊(もりとし)に下げ渡してしまうのでした。
二度目の結婚・生まれて間もない娘と引き離される「そなたの忠功に報いるべく、この美女を授けよう」
「身に余る御厚恩、ありがたき仕合せにございまする……が、こちらの御方はいささか身が重いのでは……?」
それもそのはず、このとき厳島内侍は清盛の子を妊娠中でした。どういう神経をしているのでしょうか、まったく偉い人のお考えというのは分からないものです。
「大丈夫、生まれた子供は引き取るから。そなたはそなたで遠慮なく子作りをせい」
「いや、そういう話では……」
果たして長寛2年(1164年)に女児が誕生。約束どおり清盛が引き取ったのですが、生まれてすぐに娘と引き離された厳島内侍の悲しみは察するに余りあります。
「あの、妻があまりに不憫なので、女児を返してやって欲しいのですが……」
「ならん。これは我が子なのだから、そっちはそっちで子作りすればよいではないか」
「いや、そういう話では……」
なんてやりとりがあったかはともかく、成長した女児は御子姫君(みこひめぎみ。冷泉局)と呼ばれ、後白河法皇(ごしらかわほうおう)と政略結婚させられました。
ちなみに御子姫君は母ゆずりの美女だったものの、清盛の意図を承知の後白河法皇から愛されるはずもありません。やがて結婚から間もない治承5年(1181年)に18歳で亡くなってしまいますが、それはまた別の話し。
三度目の正直?土肥実平に迎えられ、余生を送るさて、盛俊の妻となった厳島内侍は20年ほど連れ添いました。
彼女が生んだのかは定かならぬものの、家には盛俊の子である平盛綱(もりつな。盛俊の弟とする説も)や平盛嗣(もりつぐ)もおり、団欒に心慰められるひとときもあったことでしょう。
やがて夫の盛俊が寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の合戦で討死。『源平盛衰記』によると平家の滅亡後に鎌倉の御家人である土肥実平(どひ さねひら)の妾とされます。
実平は源頼朝(みなもとの よりとも)の流人時代から親交があり、その挙兵にいち早く呼応した最古参の一人。
質実剛健を旨とする実平は、鎌倉政権が興隆する中でも質素な暮らしぶりを変えず、頼朝から愛されていたと言います。
「不束者ではございますが……」
これまで権力の絶頂にあった清盛に始まり、その一門として権勢を振るった盛俊に嫁いできて、三番目の夫となった実平は随分と見劣りするかも知れません。
しかし盛者必衰の移ろいを目の当たりにする中で、ずっと変わらない素朴な実平の態度にホッとしたのではないでしょうか。
厳島内侍の没年は不詳ですが、実平の(恐らくは、不器用な)愛情を受けながら安らかな余生を送ったことを願うばかりです。
※参考文献:
角田文衛『平家後抄 落日後の平家 上』講談社学術文庫、2000年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan