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般若心経「呪文」の功徳 (3/4ページ)

心に残る家族葬

長老は呪術や占いに頼る人を「怠け思考の人」「努力しないで最高の結果を欲しがる人」であり「宗教たるもの、人間の呪文願望を支えてはならない」と手厳しい。
科学的な解釈や初期仏教を称するテーラワーダ仏教からの批判など、現代において呪術としての般若心経は迷信に過ぎないのかというと、そういうこともない。心経の功徳を説く宗教、術師らは変わらず存在している。ある霊能者は般若心経100万遍の誓願を立て達成したことで様々な不可思議が現前したという。また般若心経を唱えることで願望を実現するなどとする本も多数出版されている。それらは仏教なのか。オカルトだろうと言われると、長老が指摘するように無視できない問題かもしれない。しかし神仏習合という形で仏教を飲み込み、真言密教や専修念仏を生んだ日本仏教の土壌で般若心経の功徳も育まれてきたのである。

■すがる想い

本当の苦しみは理想や理屈では超えられない。救われたいという切なる想いは正論で片付くものでもない。法然が念仏を唱えれば救われる専修念仏を説いた時、既存仏教は一斉に反発した。彼らから見れば修行も勉学もしない専修念仏などは、インスタントな幸福を得られるだけの原始的な呪術に見えただろう。しかし山奥や伽藍の奥からはひたすら念仏を唱える庶民の顔は見えない。庶民が般若心経にすがったのは「無」でも「空」でもない。唱えることの功徳である。そこには知的階級の僧侶には見えない、庶民の涙が込められている。般若心経はその呪文ゆえに哲学として仏教を超え、生老病死を克服する力を与えてくれるのである。

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