弔いを目的に作られるのは碑や神仏像だけでなく文学作品でも存在した

心に残る家族葬

弔いを目的に作られるのは碑や神仏像だけでなく文学作品でも存在した

東急多摩川線下丸子(しもまるこ)駅から歩いて5分ほどのところに、「矢口ノ渡(わたし)頓兵衛(とんべえ)地蔵尊」をお祀りしている小さなお堂がある。制作・建立時期は不明だが、砂岩でできているというこのお地蔵さまは、まるで溶けているかのように見えることから、「とろけ地蔵」とも呼ばれている。

■矢口ノ渡頓兵衛地蔵尊の頓兵衛とは新田義興を誅殺した人物


お地蔵さまに冠された「頓兵衛」とは、実在したか否かは不明だが、多摩川・矢口の渡しの船頭で、南北朝時代の名将・新田義貞(にったよしさだ、?~1338)の次子・義興(よしおき、1331~58)の謀殺に関わったとされている人物の名前だ。しかも頓兵衛は、江戸時代中期に活躍し、「エレキテル(摩擦起電器)」や本草(ほんぞう)学者かつ、物産学者として知られる鬼才・平賀源内(ひらがげんない、1728~79)が、福内鬼内(ふくちきがい)の筆名で著わした江戸浄瑠璃、『神霊(しんれい)矢口渡』(1770年初演)に登場する。このお地蔵さまは、自らの罪を悔いた頓兵衛が、義興の菩提を弔うために建てたもの。そしてお地蔵様さまが「とろけている」のは義興の祟りによって、お地蔵さまに雷が落ちてしまったためだという言い伝えもある。

■新田義興の死後について書かれた神霊矢口渡


平賀源内の『神霊矢口渡』は義興の死後、その怨念の深さゆえか、多くの災厄が発生したことから、義興を埋葬していた塚に一社を造立したのがはじまりだという「新田大明神」(現・新田神社、大田区矢口)が、江戸時代半ばにもなると、荒廃の一途を辿っていた。それを憂えた人々が源内に頼んで書いてもらった、5段続きの作品だ。軍記物で知られる『太平記』(1368~1375成立)を下敷きにしつつも、神社の縁起物語的要素も色濃い。しかも「琥珀の塵や磁石の針」など、源内らしい「自然科学」的なせりふもあるこの浄瑠璃は大いにヒットし、だんだんと「エンターテインメント」的に洗練されていった。そして寛政6(1794)年には、歌舞伎化もされている。更に浮世絵にも描かれた。現在では主に4段目の、義興の弟・義岑(よしみね、新田義宗(よしむね。1331?〜1368)のこと)と頓兵衛の娘・お舟(ふね)が登場する「頓兵衛住家(すみか)の場」が、歌舞伎や浄瑠璃で演じられている。

■新田義興は優秀な武将だった


そもそも新田義興とは、どのような人物だったのか。南朝延元2/北朝建武4(1337)年に義興は、南朝方の北畠顕家(きたばたけあきいえ、1318~1338)が京都方面に攻め上って行ったことに呼応して東国の軍勢を率いて参陣し、功績を挙げた。しかしその当時、父・義貞が顕家に対抗意識を有していたことや、義興自身は義貞の次子ではあったものの、正室(せいしつ。本妻)の子ではなかったために疎んじられていたことから、義貞から離れ、主に東国を拠点として活躍していた。

義貞亡き後も義興は、(南朝)正平7/(北朝)観応3(1352)年に宗良親王(むねよししんのう、1311〜1385)を奉じ、上野國(現・群馬県)で蜂起した。そして下野國(現・栃木県)の有力武将・芳賀高貞(はがたかさだ、生没年不詳)の軍を破り、武蔵國に進出した。その後、鎌倉を占拠するなどの武功を立てていた。

■頓兵衛に嵌められた新田義興

このような義興の動向は、北朝方の足利一門にとっては「目障り」だった。そこで北朝側の武蔵守護だった畠山国清(くにきよ、?〜1362)は、手下である竹沢右京亮(たけざわうきょうのすけ、生没年不明)に、義興討伐を命じた。それを受けて竹沢はさまざまな策を弄したが、なかなかうまくいかない。ついに江戸遠江守(えどとうとうみのかみ、生没年不明)と謀り、「畠山を討ち取るために、一緒に鎌倉へ参りましょう!」と義興に誘いかけた。その話に乗った義興は矢口の渡しに到着した。あらかじめ2人は船頭の頓兵衛に、渡し船の船底に2ヶ所穴をあけ、水が入らないように栓を差し込ませるという細工を命じていた。それと並行して川の向こう岸には、武装した300余騎の武士、そして渡し場の背後には150人の射手を配し、義興を絶対に取り逃がさないよう、手筈を整えた。その上、人目についてはまずいと義興をそそのかし、わずか13人の供(とも)だけにして、船に乗り込ませた。

船が川の中央に差しかかったところで頓兵衛は栓を抜き、即座に川に飛び込んで逃亡した。船は見る見るうちに水浸しになり、沈み始めた。それを合図に、船に向かって射手がいっせいに矢を射かけてきた。

■新田義興とその取り巻きが迎えた最後

この一連の迅速な攻撃に義興は、自身が敵の術にはまってしまい、もう逃げ道がないことを悟った。家来の井弾正(いの・だんじょう、生没年不明)は義興を自らの肩に乗せ、何とか水没しないように踏ん張っていたが、力尽きてきた。義興は「七度(ななたび)までも生まれ変わって、この恨みを晴らす!」と宣言し、刀を抜いて自害した。(南朝)正平13/(北朝)延文3(1358)年10月10日、28歳の若さだった。供の13人も皆、義興の後を追った。義興亡き後、南朝側には、北朝側と互角に戦えるほどの武者が二度と出ることはなかったという。

■弔いを目的に描かれる文学作品はたしかに存在してきた

新田義興のみならず、南朝・北朝の擾乱を描いた『太平記』のような軍記物語は、国文学者の山下宏明(1931〜)によると、平氏一門の栄華と没落を描いた『平家物語』(1309年以前成立か)などと同様、公的な歴史記録を目的としているばかりではなく、仏教的な栄枯盛衰、盛者必衰のことわりを説くことに加え、戦いの中で命を落とした人々の霊を弔い鎮める「いくさ物語」としての目的によって語られ、書かれ、継承されてきた側面もあるという。

「新田神社」のような宗教施設、或いは「頓兵衛地蔵」のような神仏像やモニュメントは、義興のように非業の死を遂げた人物の無念・怨念を鎮め、慰めるために日本国内に多く建てられてきた。しかし、そうしたものばかりでなく、『太平記』のように、作品そのものに「弔い」の目的・意味がある文学も存在していたのだ。

■ロシアとウクライナについてもいつかきっと…

『太平記』に限らず、文学や映画・ドラマ、或いはアニメやゲームなど、いわゆる「歴史もの」の作品において、我々はある特定の英雄の活躍や武功に心踊らせたり、或いは彼/彼女が時代や運命に翻弄された結果、悲劇的に命を落としてしまったことに心を痛め、涙したりしながら、その世界観を楽しみ、味わってきた。しかし今年の2月24日に始まった、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからずっと、日々刻々とその様子が報道されている現在においては、現実的な危機や恐怖を伴わない「過去の歴史ロマン」を高みの見物よろしく「楽しむ」「味わう」ことが「平和」「幸せ」なことだったと、痛感させられる。逆に、『平家物語』や『太平記』成立当時においては、戦いの中心人物である「大将」「英雄」が命を落とし、それが「物語」として語られるばかりでなく、さまざまな生き様や背景を有していた、多くの名もなき人々が国や地域を挙げての争いごとに巻き込まれ、理不尽な死を遂げていたことが「リアル」であったために、「弔い」のための文学作品も成立、存続していたのだろう。

依然として先が見えない今回の紛争は、今後ロシアやウクライナはもちろんのこと、世界全体に大いなる変転をもたらすものになることは間違いない。こうした状況を受け、『太平記』同様の「弔いのための文学」が、旧来の「紙媒体」なのか、または 何らかのデジタル媒体なのかは不明だが、有名無名を問わず、多彩な人々によって紡ぎ出され、後世に語り継がれていくものとなることを、心より期待したい。

■参考資料

■利倉幸一・河竹登志夫・郡司正勝・山本二郎・戸坂康二(監修)『名作歌舞伎全集 第四巻 丸本時代物集 三』1970年 東京創元新社
■戸坂康二「解説 神霊矢口渡」利倉幸一・河竹登志夫・郡司正勝・山本二郎・戸坂康二(監修)『名作歌舞伎全集 第四巻 丸本時代物集 三』1970年(258-260頁) 東京創元新社
■山下宏明(校注)『新潮日本古典集成 <新装版> 太平記 五』1988/2016年 新潮社
■山下宏明「解説 太平記はいかなる物語か」(校注)『新潮日本古典集成 <新装版> 太平記 五』1988/2016年(495-512頁) 新潮社
■山本二郎「神霊矢口渡」国史大事典編集委員会(編)『国史大事典 7』1990年(955頁)吉川弘文館
■峰岸純夫「新田義興」国史大事典編集委員会(編)『国史大事典 11』1990年(68頁)吉川弘文館
■尾頭正英「平賀源内」国史大事典編集委員会(編)『国史大事典 11』1990年(1044-1045頁)吉川弘文館
■新倉善之『東京史跡ガイド 11 大田区史跡散歩』1992年 学生社
■平岩弓枝『太平記 (21世紀版・少年少女古典文学館 第14巻)』1994年 講談社
■長谷川端(校訂・訳)『日本の古典をよむ 16 太平記』2008年 小学館
■かまにし17編集委員会(編)『矢口の渡考 歴史に彩を添える浄瑠璃『神霊矢口の渡』』2013年 かまにし17編集委員会
■いろは出版(編)『失敗図鑑 偉人・いきもの・発明品の汗と涙の失敗をあつめた図鑑』2018年 いろは出版
■大野正人『早すぎた天才 知られてないけど、すごかった』2021年 文響社
■「浮世絵に描かれた川崎 5.古事・役者絵 No. 3 神霊矢口渡」『川崎市立図書館』 
■「歌舞伎事典:神霊矢口渡」『文化デジタルライブラリー』
■東白川町地歌舞伎ちゃんねる『神霊矢口渡 〜頓兵衛住家の場 (H 18) 東白川村歌舞伎
■「頓兵衛地蔵」『大田区』
■「平賀源内が書いた人形浄瑠璃は歌舞伎 『神霊矢口渡』となる」『馬込と大田区の歴史を保存する会』
■『新田神社
■新田神社『「矢守」と「神霊矢口渡」
■新田神社『裏切り者を懲らしめた神様

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