主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ (2/3ページ)
しかしこの時、金ヶ崎城が落ちてしまったことで景鏡は劣勢に追い込まれます。ここで浅井長政が信長を裏切ったことで形勢逆転となるのですが、この時に景鏡は信長を討ち取るチャンスを逃してしまいました。
信長との戦いその後も、浅井・朝倉の連合軍は織田・徳川と戦い続けますが、1570(元亀元)年6月に姉川の戦いで敗北。さらに同年9月の志賀の陣で比叡山延暦寺を味方につけて戦い続けます。
この時も景鏡は総大将を務めていることから、相当優秀な武将だったことが分かりますね。
実際、彼は織田信治(信長の弟)や森可成、それに坂井政尚を討ち取るなどの功績を残しています。
ここで足利義昭と朝廷が間に入って講和したことと、大雪の影響で朝倉軍が越前へ退去したことがあいまって、結果は引き分けとなりました。
とはいえまだ戦いは続きます。1572(天正元)年、信長が浅井長政の拠点である小谷城の近くに虎御前山城を築き、長政を攻め始めました。
この時、景鏡は援軍として小谷城へ向かいますが、すで大勢は不利と見込まれていたのか、朝倉家の家臣の多くが織田へと寝返りました。
こうした情勢の中で、景鏡も裏切りを決めたのでしょう。もともと主君の義景との関係も微妙になっていたようです。
景鏡の計略による朝倉家の滅亡1573(天正元)年8月のことです。景鏡は、信長の小谷城攻めを受けて出陣の命を受けました。しかし、自軍の兵が疲弊しているからと、これを拒みます。