【鎌倉殿の13人】まもなく描かれる?謎に包まれた源頼朝の死。実は怨霊に祟られた説も
源氏の御曹司から一転、平治の乱に敗れて流罪人に。しかし20年の雌伏を経て挙兵、ついには征夷大将軍として武士の世を切り拓いた源頼朝(みなもとの よりとも)。
その活躍は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に記されました。しかし、その死については前後の記録がごっそりと抜け落ちているため、多くの謎を残しています。
よく聞くのが「落馬して亡くなった」というもの。『承久記』によれば建久9年(1198年)12月に落馬して病床に臥し、翌1月13日に53歳の生涯に幕を閉じたのでした。
ただしこの落馬が原因で亡くなったとする話も、死後十数年が経ってから「あの時に落馬して間もなく亡くなった」と言及される程度。
落馬が直接の原因なのか、あるいは病死か暗殺か……いまだ諸説が定まらない中、頼朝が「怨霊に祟られて亡くなった」という説まであると言います。
今回は南北朝時代の歴史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』より、頼朝が怨霊に祟られてなくなったエピソードを紹介。
確かに色んな敵を殺してきた頼朝ですから、ありえないとは言えなさそうですね。
橋供養の帰り道時は建久9年(1198年)、頼朝は相模川の橋供養に参列しました。橋供養とは、橋が架かったことを祝い、安全を祈願する法要です。
相模川は神奈川県で最大の河川であり、ここが容易に通れるようになると人々の生活はとても楽になります。
「あぁ、疲れた疲れた……」
供養もつつがなく終わり、鎌倉へ帰ろうと家路をたどる頼朝。すると八的ヶ原(やまとがはら。神奈川県藤沢市あたり)に亡霊が出現しました。
「あれは……九郎?三郎叔父に、あぁ……十郎叔父までいやがる」
そこには奥州で自刃に追い込んだ弟の源義経(よしつね)、かつて叛旗をひるがえした叔父の源義広(よしひろ)、そして「獅子身中の虫(寄生虫)」と忌み嫌った源行家(ゆきいえ)らが勢ぞろい。
※木曽義仲(きそ よしなか)とその嫡男・源義高(よしたか)がいなかったのは、彼らはもう怨んでいなかったのでしょうか(キャラクター的に、そういう怨みを引きずらなそうなのと、恐らく人々が覚えていなかったのかも知れません)。
「ちくしょう、ガンつけて来やがる……えぇい無視だ無視!」
とは言え、こういうのはナメられたら負けですから、頼朝もガンを決めて睨みつけます。
「あの、御所(頼朝)様?」
他の御家人たちには見えていないのか、いきなり虚空をこれでもかと睨みつけ出す頼朝は、さぞ不気味に思ったことでしょう。
さて。ようやく鎌倉へ戻ってきたと思ったら、今度は稲村ヶ崎の海上に10歳ばかりの童子が立っていました。もちろん亡霊です。
「やっと見つけた……そなたを随分怨み続けておったぞ……朕(ちん。天皇陛下の一人称)が誰と思う?そうじゃ、かつて壇ノ浦に沈んだ安徳天皇(あんとくてんのう)じゃ!」
壇ノ浦で平家が滅んでから10年以上。だいたい鎌倉にいた頼朝を捜すのに、どこを探していたのかというツッコミはさておき、このあと間もなく頼朝は病床に臥せってしまいます。
そして年が明けて建久10年(1199年)1月13日、頼朝は53歳で薨去(こうきょ。貴人がなくなること)したのでした。
終わりに……同冬大将殿相模河ノ橋供養ニ出テ還ラせ給ヒケルニ八的カ原ト云處ニテ亡サレシ源氏義廣義経行家已下ノ人々ノ怨霊現レ将軍ニ目ヲ見合ケリ是ヲ打過給ヒケルニ稲村崎ニテ海上ニ十歳計ナル童子ノ現シ給ヒテ汝ヲ此程随分ウラミツルニテコソ見付タレ我ヲハ誰トカ見ル西海ニテ沈し安徳天皇也トテ失給ヌ其後鎌倉ヘ入給ヒテ則病著給ヒしカ明年正月正治元年十三日終ニ五十三ニソ薨し玉フ是ヲ老死ト云ヘカラス偏ニ平家其外多クノ人ヲ失ヒ或親族等ヲ亡セシ霊怨因果歴然ノ責也……
※『保暦間記』より
かくして世を去った頼朝。しかし『保暦間記』はこれを「寿命ではない」と追及します。
非業の死は平家をはじめ多くの人々を殺し、挙げ句の果てには親族までも滅ぼした怨霊の祟り。まさしく因果応報に他なりません。
もし頼朝の滅ぼしたのが叔父の義広や行家、そして平家だけだったら、ここまで祟られはしなかったのではないでしょうか。
平家討伐に大功を立てた(にもかかわらず)義経を殺したために、判官贔屓の心情から「頼朝に一矢報いてやりたい」と願う人々によってこうした伝承が生まれたのでしょう。
頼朝の死については他にも色々説があるので、また調べて紹介したいと思います。
※参考文献:
小瀬道甫『保暦間記』日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan