これは蒲殿ロス不可避…源範頼が失脚に追い込まれた失言とは?【鎌倉殿の13人】

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これは蒲殿ロス不可避…源範頼が失脚に追い込まれた失言とは?【鎌倉殿の13人】

富士で巻狩りに出ていた源頼朝(演:大泉洋)たちが、賊によって襲われました(曽我兄弟の仇討ち事件)。その安否も分からぬ中、第一報に接した鎌倉は大混乱に陥ります。

「鎌倉殿はご無事ですか、万寿(演:金子大地)は!?」

「……むしろ心配なのはこの鎌倉。混乱に乗じて謀叛が起こらぬとも限りませぬ」

「かたがた、どうかご安心下され。鎌倉はそれがしがお守り申す」

取り乱す政子(演:小池栄子)らをなだめたのは、クソ真面目なカバ……もとい蒲殿こと源範頼(演:迫田孝也)。

頼朝亡き後、自分が次の鎌倉殿になろうと思っていた?太寧寺蔵 源範頼肖像

しかしこの発言、とりようによっては「頼朝がいなくても鎌倉は自分が守っていける」転じて「頼朝(と万寿)がいなくなれば、自分こそ次の鎌倉殿だ!」……という野心にとれなくもありません。

流石に曲解もいいところですが、頼朝はこの発言をもって範頼を糾弾。ついには鎌倉から追放(一説には粛清)してしまうのでした。

あぁ、蒲殿……どこまでも真面目で誠実な人柄でファンが多かっただけに、今から範頼ロスが心配でなりませんね。

『保暦間記』に記された範頼発言

しかし、範頼失脚の原因となったこの発言について、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には言及がありません。

発言の出典は南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』。保元の乱(保元元・1156年)から暦応2年(1339年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が崩御されるまでの間を記録しているため、そのように呼ばれています。

鎌倉を守ろうとした発言が裏目に出てしまった源範頼。歌川芳艶筆

では、問題とされた範頼発言を見てみましょう。

……同八月三河守範頼被誅其故ハ去富士ノ狩場ニテ大将殿ノ討レサセ給ヒテ候と云事鎌倉ハ聞ヘタリケルニ二位殿大ニ騒テ歎カセ給ケル三州鎌倉に留守也ケルカ範頼左テ候ヘハ御代ハ何事カ候ヘキトナクサメ申タリケルヲサテハ丗二心ヲ懸タルカトテ疑ヲナシテノ事ナリキ不便ナリシ事共ナリ頼朝ノ無道寔ニ了簡ノ及所ニ非ス……

※『保暦間記』範頼被討より

【意訳】……同じ年(建久4・1193年)の8月、三河守(三州)範頼が誅せられた。
以前、富士の巻狩りにおいて頼朝討死の誤報が入った時、嘆き悲しむ二位殿(政子)を励まそうと
「鎌倉を守っているのはこの範頼ですから、御台所が何をご心配になることがあるでしょうか」(鎌倉に留守也ケルカ範頼左テ候ヘハ御代ハ何事カ候ヘキ)
と発言。
(夫が殺されて安心も何もありませんが、範頼なりの誠意だったのでしょう)
無事に生還した頼朝はそれを知って「さては丗(さんじゅう≒三州)のヤツ、二心をかけてやがるな……」と疑心暗鬼に。
それで殺されてしまったとのことで、実に不便(ふびん。不憫)でならない。頼朝の無道ぶりは寔(まこと)に了見の及ぶところではない(まったく理解できない)。

……とのこと。ちなみにこれに類いする発言は、他の史料には登場しません。

起請文を献上するも……

では『吾妻鏡』の範頼は、謀叛の疑いに対してどのように対応したのでしょうか。建久4年(1193年)8月2日、範頼は頼朝に起請文を献上します。

敬みて立て申す
起請文の事。
右御代官として、たびたび戦場に向ひをはんぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降、全く貮なし。御子孫の将来たりといへども、またもつて貞節を存ずべきものなり。かつはまた御疑ひなく御意に叶ふの條、具に先々の厳礼に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。しかるに今さら誤たずして、この御疑ひに与ること、不便の次第なり。所詮当時といひ後代といひ、不忠を挿むべからず。早くこの趣をもつて、子孫に誡め置くべきものなり。万が一にもこの文に違犯せしめば、上は梵天帝釈、下界は伊勢・春日・加茂・別して氏神正八幡大菩薩等の神罰を源範頼が身に祟るべきなり。よつて謹慎してもつて起請文件のごとし。
建久四年八月 日     参河守源範頼

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)8月2日条

【意訳】つつしんで誓いを立て、この起請文に記します。
私はこれまで鎌倉殿の代官として度々戦場に向かって朝敵を滅ぼし、愚直に忠義を尽くしてきました。まったく貮(ふたごころ)などありません。鎌倉殿のご子孫に対しても変わらず忠義を尽くして参ります。このたび謀叛の疑いをかけられてしまったことはとても残念です。今までがそうだったように、これからも魔が差すことなどございません。この真心を我が子孫に厳しく申しつけておきます。もしこの誓いに背いたならば、天上では梵天(ぼんてん)様に帝釈天(たいしゃくてん)様、地上ではお伊勢さまに春日大社に加茂神社、そして源氏の氏神様である八幡大菩薩の天罰を受けることになりましょう。
以上、つつしんでお誓い申し上げます。

……文面を読んでいるだけでも、必死になって「何とか頼朝と和解したい、赦して欲しい」と言葉を尽くす蒲殿の姿が目に浮かぶようです。

大江広元。歌川芳員「鎌倉大評定」より

しかし、起請文を取り次いだ大江広元(演:栗原英雄)はその文面に言いがかりをつけて、突っぱねてしまいました。

「ご署名に源の姓を使われていますが、これは鎌倉殿とご自分が同列である(取って代わる資格がある)とでも言われるおつもりか。思い上がるのもいい加減になされ。書式不備につき、この起請文は無効にございます!」

……殊に咎められて曰はく、源の字を戴す。もし一族の儀を存ずるか。すこぶる過分なり。これまづ起請の失なり。……

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)8月2日条

そんなバカな。範頼だって頼朝と同じ源義朝(よしとも)の息子だし、ただ純粋に源氏だからそう名乗っただけで……と、必死に弁解するも、けっきょく功を奏しませんでした。

死一等を減じられ、実質的に伊豆への流罪

誠心誠意の起請文も受け付けてもらえない。どうすればいいんだ……悶々と悩む範頼。そんな8月10日、家人の當麻太郎(たいま たろう)が捕らえられたとの情報が入ります。

範頼に仕えた勇士・當麻太郎。歌川芳艶筆

何と當麻太郎は夜明け前の寅刻(午前4時ごろ)、頼朝の寝所しかも床下に潜伏していたと言うのです。

「何てことを……それがしは知らぬ!命じておらぬ!」

頼朝があらかじめ手配しておいた結城朝光(ゆうき ともみつ)・宇佐美祐茂(うさみ すけもち)・梶原景季(演:柾木玲弥)らによって捕らわれた當麻太郎も「これは謀叛ではない」との一点張り。

とは言え時間が時間、場所も場所。かねて疑いがある上、當麻太郎は範頼が信頼する勇士。範頼は主従ともども有罪とされてしまいます。

「……が、大姫(演:南沙良)のご病気に免じて死一等を減じ、伊豆への『下向』を命じる」

かねて病弱であった大姫は近ごろ特に病が重く、これは頼朝による過酷な処罰が神仏の怒りにふれたゆえとされていました。

病床の大姫。菊池容斎『前賢故実』より

とにもかくにも命ばかりは助かった範頼。しかし下向(地方への赴任)とは言っても、その実態は流罪と同じです。

……帰参その期あるべからず。ひとへに配流のごとし。

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)8月17日

【意訳】二度と鎌倉へ帰ってきてはならないよう命じられ、流罪も同然である。

かくして伊豆へと下向した範頼は、そのまま歴史の表舞台より姿を消したのでした。

終わりに

かくして鎌倉を去った範頼。『吾妻鏡』では以後の記録がない一方で、『保暦間記』や『北條九代記』などでは粛清されたと伝えられます。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、どのような最期を迎えるのでしょうか。

頼朝と範頼。猜疑心の強い頼朝はともかく、蒲殿の思いが報われて欲しかった(イメージ)

「和解は諦め、流罪も受け入れる。だからどうか死なせないで……!」

そんなファンの声が聞こえてくるようです。『吾妻鏡』で言及がないので、ワンチャン命だけは永らえて欲しい。

でも、そんなファンの思いをあえて踏みにじってみせるのが三谷幸喜クオリティ。きっと非業の死を遂げてしまうのでしょう。心して、見届けたいと思います。

※参考文献:

貴志正造 訳『全譯吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、1979年10月 小瀬道甫『保暦間記』

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