横浜中華街はどうして生まれたの?現在の「おいしい中華街」が完成するまで

Japaaan

横浜中華街はどうして生まれたの?現在の「おいしい中華街」が完成するまで

横浜中華街の起源は「華僑・華人」

皆さんは、横浜の中華街には行ったことがありますか?

行ったことがない方でも、テレビなどで一度は見聞きしたことがあると思います。

日本国内だけど異国情緒たっぷりの街、そしておいしそうな料理の数々。わくわくしますね。

だけど、そもそもなぜ「横浜」に「中華街」があるのでしょう?

その歴史や成り立ちを紐解いてみます。

横浜中華街は、今から約160年前、1859年の横浜港の開港に始まります。当時、横浜には西洋諸国からたくさんの人・物・文化が流れ込んできていました。

この時、西洋諸国の商人と日本人の間を取り持ったとされるのが、中国本土から日本に移住してきた「華僑・華人」と呼ばれる人々です。

彼らはすでに香港や広東、上海などの西洋商館で西洋人と交流を深め、いち早くその文化や言葉を理解していました。もちろん、日本人との交流もすでに多くありました。

一方、当時の日本人の多くは西洋の言葉を自由に扱うことができず、また逆に西洋の商人たちも日本語はうまくできません。

そこで、華人が通訳となることで取引はスムーズになり、華人は貿易の仲介役として大変重宝されたのです。

明治期に活躍した「三把刀」

また横浜の地形や街並みは、中国からやってきた人々に「風水」の観点から好まれたとも言われています。

こうして、横浜には多くの華人が移り住み、彼らのコミュニティとしての中華街が形成されていきました。

さまざまな国との貿易によって異国情緒溢れる街並みが形成され、さらに貿易の要である華人たちの町「中華街」が横浜にできていったのです。

しかし、この中華街が、現在のようなおいしい料理店が立ち並ぶ街並みへと変わっていくには、明治維新を待つ必要がありました。

開港から少し経ち、日本の文明開化が始まると、日本各地で外国との交流が行われるようになり、貿易業は横浜だけのものではなくなります。

すると、横浜の中華街に住む華人の仕事も、それまでのように貿易業や、貿易の仲介役だけではなくなっていきます。

当時、彼らが特に得意としていた職業には「料理人」「理髪師「仕立て屋」の3つがありました。

それぞれ包丁、剃刀、鋏を使うことから「三把刀(さんばとう)」と呼ばれていたそうです。

このうち、特に料理人は当時から大いに活躍していました。横浜は中国本土からも食材が調達しやすく、また中華料理の需要も高かったのです。

戦後に完成した「横浜中華街」

さらに時代が下り、1945年5月。戦争によって横浜の中華街は大ダメージを受けます。同年8月に終戦を迎えて復興が始まった時、ここでも活躍したのが華人でした。

彼らは終戦後すぐに自治組織をつくり、配給物資の取りまとめなどを行い、中華街の復興に尽力したといわれています。

料理人たちも、配給の小麦粉や砂糖を使って揚げドーナツを作り、焼け野原の上にバラックを立てて商売を始めました。

中国の揚げ菓子・麻花(マーホア)

そして高度経済成長期になると、1972年の日中国交正常化によって、日本では「パンダ、ニーハオ、芽台酒(マオタイシュ)」を掛け声とした中国ブームが起こります。

その影響もあり、横浜の中華街にはさらに多くの人が訪れるようになりました。

こうして、最初は貿易に携わる華人の居住地だった横浜の中華街は少しずつ変化していき、現在の街並みへと発展したのです。

私たちが慣れ親しんだ横浜中華街にも、古くからの歴史があることが分かりましたね。

もしも足を運ぶ機会があったら、歴史の奥深さに思いを馳せてみるのもいいかも知れません。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「横浜中華街はどうして生まれたの?現在の「おいしい中華街」が完成するまで」のページです。デイリーニュースオンラインは、横浜横浜中華街カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧