悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか? (3/5ページ)
また、領内で農民の間に水争いがおこった際に庄屋が秀次に裁定を訴えたところ、秀次は双方が納得する裁決を下して感謝されたという逸話もあります。
現に、近江八幡市内には「水争い裁きの像」が建てられ、秀次は今でも地元では高い評価を得ているのです。
1590年の小田原征伐では山中城攻めの大将となり、徳川家康らと共に半日で陥落させています。
戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国・伊勢国を加増され、100万石を超える大大名となります。
秀吉には子供がいなかったため後継者として注目されるようになり、将来を嘱望される存在となっていました。
そして、秀吉の嫡男・鶴松が夭折し大和大納言秀長が没すると、秀次は秀吉の養子となり関白の職を譲られます。
唐入り(朝鮮出兵)に専念する秀吉の代わりに、まだ20代半ばの若さでありながら、聚楽第で秀吉の決めた法度などに準じて政務を執り、関白の名に恥じない働きぶりを見せています。