悪行三昧の逸話が残る豊臣秀次。”殺生関白”という不名誉なレッテルは本当だったのか? (4/5ページ)

Japaaan

しかし、1593年に淀殿が豊臣秀頼を産むと雲行きが怪しくなります。

凄惨な処刑

秀頼を溺愛した秀吉は、秀次に関白の座を譲った事を後悔し、次第に疎んじるようになっていきます。

豊臣秀頼(Wikipediaより)

そして1595年、秀次は「鹿狩りと称して山へ行き、謀反の計画を立てているという噂がある」と謀反の疑いをかけられてしまいます。

謀反する気など全くなかった秀次は、すぐに秀吉に弁明し誓紙を提出した上で要請に応じて伏見城に参上しますが、登城すら許されず城下の屋敷に留め置かれ、高野山へ行き謹慎するように命じられてしまいます。

わずかな供を連れ高野山へ入り出家した秀次、しかし、そこにもたらされたのは「死を賜る」という命令でした。

秀次は切腹、享年28。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。秀次の切腹後、秀吉による粛清は彼の妻子と家臣にまで及び、三条河原で凄惨な処刑が行われました。

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