福岡市早良区野芥にある「野芥縁切(えんきり)地蔵尊」を調べてみた

心に残る家族葬

福岡市早良区野芥にある「野芥縁切(えんきり)地蔵尊」を調べてみた

福岡県福岡市早良(さわら)区野芥(のけ)に、「野芥縁切(えんきり)地蔵尊」をはじめとする古仏が祀られた小さな祠がある。

■野芥縁切地蔵尊が「縁切」と名付かれた理由

入り口近くに置かれている看板によると、平城京遷都前から、奈良時代初期に当たる和銅(708~724年)の頃、重留(しげどめ)の里(現・福岡市早良区重留)の長者、富永修理(しゅり)太夫照兼の子・兼縄と、粕屋(かすや)の長者原(ちょうじゃばる、現・糟屋郡粕屋町)の大家、曽根出羽守(でわのかみ)国貞の娘・お古能姫(おこのひめ、於古能姫とも)との縁談が調った。お輿(こし)入れの日に、嫁入り道具を満載した7台の山車(だし)行列が野芥まで来たとき、婿の兼縄が急死したという知らせを、姫は受け取った。そこで姫は「貞婦、二夫に見(まみ)えず(貞操堅固な女性は、夫が亡くなった後に、他の男性と再婚しない)」「早や(=もはや)嫁ぐべき家も無し」と落胆し、自害して果てたという。しかし、実は兼縄は死んでおらず、ひとりでなのか、それとも、もともと愛し合っていた女性と一緒だったのか、いずれにせよ、どこかに出奔してしまったため、父・照兼がそれを偽り、「頓死」の急報を長者原に差し向けていたところ、入れ違いの格好で道中の姫の耳に入ってしまった、とも、かねてより富永家乗っ取りを企てていた重臣・土生(はぶ)重富が、「婿が急死した」と嘘を伝える使者を曽根家に走らせた。そしてそれに姫が「引っかかってしまった」とも、言われている。

■野芥縁切地蔵尊の姿かたちが石の塊にしか見えない理由


いずれにせよ、姫が「急死した」とされる婿に殉じる格好で亡くなったことは間違いない。土地の人々は姫の無念を悼み、一体の石像を立てた。それが今に残る、「縁切地蔵尊」と言われている。堂内に祀られたお地蔵さまは高さ70センチほどで、よだれかけがかけられているものの、一見、単なる「石」の塊にしか見えない。何故そのような形なのか。それは縁を切りたい相手に、お地蔵さまそのものを削った粉、またはお地蔵さまのお顔に化粧を施し、おしろいが乾いた頃合いを見計らって、それをこそぎ取って持ち帰り、こっそり飲ませることで「縁切りが叶う」という俗信があったためである。そこで、令和の今に至っても、堂内にあふれる絵馬や手紙に込められた、男女の離縁離婚問題のみならず、病気やギャンブル依存症などの「悪縁」を断ち切りたい多くの善男善女が福岡県内にとどまらず、北海道から沖縄に至る全国各地から訪れ、お地蔵様の御利益にすがっている。

■縁切りや離縁、絶縁と信仰の歴史

野芥縁切地蔵尊のような「縁切り」に功徳があるとされる神社や寺院での祈願行為、または嫁入り行列では、「離縁」「絶縁」を恐れ、その前を決して通ってはならない、といった禁忌や忌避行為の伝承は、日本各地に多く見られる。また、そのような神社や寺院などが建てられている「場所」の多くは、「縁切り」のエピソードよりもはるか以前から伝わる、何らかの「境界地点」に結びついて語られてきた。例えば京都・宇治(うじ)の、「橋の守り神」または嫉妬心が強い「鬼女」としても知られる橋姫(はしひめ)や、外敵の侵入を防ぐとされる塞の神(さいのかみ)などの「強い神」が、外敵または、疫病などの災厄から村を守るために、その境界地点に祀られてきたという。

■野芥縁切地蔵尊の近くにある野芥櫛田(くしだ)神社の歴史


野芥縁切地蔵尊の近くには、野芥櫛田(くしだ)神社がある。『筑前國續風土記拾遺』(1854年頃)編纂当時には「櫛田社」の説明の中に、「鳴神天神一社」「雷天神」「觀音堂」と並び、「御子殿地蔵堂」として、「村南に在。里民縁切地蔵と云」の記述があり、神社と関わりが深い地蔵堂だったことがわかる。

「櫛田神社」といえば、福岡市博多区上川端町(かみかわばたまち)に所在し、毎年7月に開催される「博多祇園山笠」で有名な神社だが、野芥櫛田神社は博多の櫛田神社の元宮という説もあるという。神社の由緒書によると、景行(けいこう)天皇(4世紀前期~中期?)の頃、この土地の住民が凶賊に襲われ、難儀していた。そこで天皇が大若子命(おおわかこのみこと、?~?)に命じ、賊を征伐させたことが縁となり、神社が創建されたという。その後、平安時代の天慶2(939)年に神社が再建され、早良六郷(『和名類聚抄』(931~938年)によると、早良郡には、毘伊(ひい、現・城南区樋井川)、能解(のけ、現・早良区野芥)、額田(ぬかだ、現・西区野方)、早良(現・城南区鳥飼)、平群(へぐり、現・早良区羽根戸から金武)、田部(たべ、現・早良区小田部)、曽我(現・早良区内野)の七郷があったという)の郷社になったという。「野芥縁切地蔵」がこの地に祀られたのは、お古能姫の魂を慰めるためだったことは言うまでもないが、このあたりは古墳時代に、土地の住民を襲うような「凶賊」が侵入しやすい「場所」だったことから、先の橋姫や塞の神同様、お古能姫にも、外敵が絶対に近寄れないようにする防波堤的な「境界神」の役割も、求められていた可能性がある。

■キモい展2022で展示されているセイブシシバナヘビ

話は飛ぶが、現在、東京スカイツリー内の東京ソラマチ5階・イベントスペースで、世界の「キモい」生き物ばかりを集めた、『キモい展2022』が7月18日まで、開催されている。そこで展示されている生き物の中に、「セイブシシバナヘビ(学名・Heterodon nasicus)」と呼ばれるヘビがいる。このヘビはカナダ南部・北アメリカ中部・メキシコ北東部の砂地や草原地帯に生息する、クリーム色~茶色の、全長40~80cmほどのものだ。「シシバナ」と呼ばれているのは、鼻先がイノシシのように反り返っていることから来ている。このヘビの「キモい」とされる特徴的な行動だが、興奮すると、シャーシャーと噴気音(ふんきおん)を出して敵を威嚇するものの、相手が恐れをなして逃げ出さず、向かってくるような気配があるときは突然、口を開けてひっくり返る。そして動かなくなることだ。これは擬死(ぎし)行動、つまり死んだふりをするのだ。

■最後に・・・


昭和10(1935)年、『九州日報』のコラム「信心と伝説」で野芥縁切地蔵を調査・執筆した医師・森直郷は、「姫の破恋から縁切り地蔵としての俗信が生まれたのだらうが、自分の貞節心をはき違へた信者どもに、泉下の姫は柳眉を逆(さかだ)てて怒つて居るだらう事を、地蔵尊のために附記したい」と、厳しい言葉でしめくくっている。「貞女、二夫に見えず」という価値観が当然だった時代を生きていたがゆえに、人の話を疑わず、素直に信じてしまい、命を絶ったお古能姫だったが、そこでセイブシシバナヘビのように「死んだふり」をして、時が経つのを待つ。そして新たな幸せをつかんで欲しかった。森医師の言葉ではないが、時代や社会が求める「お古能姫」像、すなわち「貞女」「土地の境界を守る神」「男女の縁切りに功徳があるお地蔵さま」ではなく、あくまでも等身大の「お古能姫」として、崇敬の対象であって欲しいものだ。

■参考資料

■青柳種信(著)広渡正利・福岡古文書を読む会(校訂)『筑前國續風土記拾遺』1854/1993年 文献出版
■福岡県早良郡役所(編)『早良郡志(全)』1923/1973年 名著出版
■森直郷「信心と伝説 縁切地蔵」『九州日報』1935年1月6日朝刊(9頁)
■高良竹美「縁切り地蔵」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)『福岡県百科事典 下』1982年(223頁)西日本新聞社
■松崎英一「野芥荘」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)『福岡県百科事典 下』1982年(418頁)西日本新聞社
■柳猛直『福岡歴史散歩 早良区編』1995年 海鳥社
■小泉凡「縁切り」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(219頁)吉川弘文館
■内山敏典『早良逍遙マップ記 –歩いて歴史を訪ね、未来に繋ぐ-』2003年 
■有限会社平凡社地方資料センター(編)『日本歴史地名大系 41 福岡県の地名』2004年 平凡社
■福岡地方史研究会(編)『エリア別全域ガイド 福岡市歴史散策』2005年 海鳥社
■「切るのは『悪縁』です【縁切地蔵・福岡市早良区】」『西日本新聞me』2021年4月1日 
■「野芥縁切地蔵尊 仏教礼拝所」『お寺めぐりの友 The guide for exploring Buddhism facilities in western Japan』
■「野芥櫛田神社」『福岡の社』

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