奇襲ではなく最適解だった!?「桶狭間の戦い」で織田信長が採用した王道の戦略 (1/3ページ)

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奇襲ではなく最適解だった!?「桶狭間の戦い」で織田信長が採用した王道の戦略

大きな兵力差

織田信長が今川義元を討ち取った、有名な「桶狭間の戦い」。この戦いは、具体的にどのような点が優れていたのでしょうか。

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画・Wikipediaより)

ぼんやりとしたイメージでは、信長は、誰もが思いも寄らない奇襲戦略で勝利を収めたように思われています。しかし細かく見ていくと、実は彼は兵法の古典に忠実な、基本にのっとった戦い方をしたのが分かるのです。

当初、桶狭間の戦いは今川軍の勝利が確実と見られていました。今川郡と織田軍にはとても大きな兵力差があったからです。

1560年5月、今川軍は約4万、もしくは2万5千ほどとみられる大軍を率いて尾張に攻め込みました。織田信長率いる織田軍は、わずか5千の軍でその大軍に立ち向かうことになります。

今川軍の当時18歳だった松平元康(のちの徳川家康)はさっそく大高城を織田攻めの本拠地とすべく、義元より先に入城。大高城を囲む要所である鷲津砦と丸根砦を攻略しました。

信長の動向

さて肝心の信長ですが、彼は今川軍が攻めてくることを知ってなお軍議の一つも開かず、部下たちを悶々とさせていたといいます。

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