「本能寺の変」は朝廷が黒幕!?織田信長が征夷大将軍に打診された三職推任問題とは (2/4ページ)

Japaaan

なので、この発言者(申し入れた者)が貞勝(織田家側)なのか晴豊(朝廷側)なのかは諸説あります。

朝廷からの申し出であれば「信長殿に皇女を嫁がせ、適切な官職を授けたい」と穏当な感じですが、もし信長の要求であるなら「皇女(体のいい人質)と何かいい官職をよこせ」と、実に剣呑な状況です。

しかし協議の結果、晴豊は5月4日に安土城へ勅使として赴き、「関東平定の功績の賞として征夷大将軍に任命したい」意向を信長に伝えました。

「征夷大将軍か……」別に嬉しくもなかった信長(イメージ)

これまた『日々記』の記述がややこしいので、返事を保留した説と断った説があるものの、少なくともストレートに受けてはいないようです。

もし信長が貞勝を通じて官位を要求していたなら、武家の棟梁に相応しい征夷大将軍の任官を喜んで受けるはず。まさか「要求するだけしておいて、いざ授けられたら拒否する」なんて誰の得にもなりません。

信長が任官を要求するなら、太政大臣か関白か~なんて中途半端なことは言わず、ハッキリと「将軍になりたい」と指定してくるはずです。

要するに任官の件は「朝廷としては何か官職を授けたいのだが?」という晴豊の諮問に対して、貞勝が「それなら太政大臣か関白、将軍辺りが妥当なんじゃないでしょうか」と答申したものと考えられます。

しかし信長は将軍どころか、どんな官職も欲しくはなかったのです。

官職を受ける以上は……信長のこだわり

天正6年(1578年)4月、信長は右大臣と右近衛大将の官職を辞任してこのかた、ずっと無官。

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