「本能寺の変」は朝廷が黒幕!?織田信長が征夷大将軍に打診された三職推任問題とは (3/4ページ)

Japaaan

天正9年(1581年)に朝廷から左大臣の官職を授けようと打診しますが、信長はこれを辞退しています。

なぜか。信長は変なこだわりというか律儀なところがあったようで、朝廷の高官に就く以上はちゃんと京都にいて朝廷のために尽力しなければならない、と考えていたとか。

「一度引き受けるからには全力で。名前ばかりなんて我が美意識が許さない!」

と言ったかはともかく、四方の敵と戦っている状態で朝廷の政務に専念などできません。だから大臣職を受けなかったと言います。

「何とか信長を手なづけられぬものか……」思案する晴豊(イメージ)

しかし古くから官職(名誉)をもって武士を手なづけてきた朝廷としては、そんな信長の態度が怖くて仕方ありません。

がっちり抱き込んでおかないと、いつ見捨てられて経済的支援を打ち切られてしまうか、不安でならなかったのです。

要するに「貸し」を作ることで信長との連携を強化したい朝廷。意外と律儀な信長のこと、一度「貸し」を作れば、それを返すまではしっかり忠義を尽くしてくれるはず。

そこで朝廷は関東平定(武田氏討伐)の勲功をもって征夷大将軍の官職を与えようとしたのでした。

さる3月、東夷(東国の逆賊)たる武田勝頼(たけだ かつより)を征伐した信長に相応しい官職と言えるでしょう。

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