現世利益を求め願うことを仏教・神道・キリスト教はどう捉えているか

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現世利益を求め願うことを仏教・神道・キリスト教はどう捉えているか

私たちが神社仏閣へ足を運び参拝する目的は何だろうか。その多くは何らかの祈願のためではないだろうか。家内安全、無病息災、商売繁盛、合格、子宝、安産、良縁…。所狭しと絵馬が掛けられ、おみくじが縛られている光景は境内の日常の風景である。神社仏閣に祈願成就を求めるのは本来の神道・仏教とは対極の行動なのだが。

■現世利益は呪術である

解決の糸口がつかめないウクライナ情勢に対して、日本の書家たちが平和への願いを込めて全国で一斉に筆をふるった。福岡県久留米市では書家が「和を以って貴しと為す」という意味の書を揮毫(きごう)した。長崎市では地元の高校生5人が縦およそ3メートル、横4メートルの紙に「一家団欒(だんらん)」の4文字を書き上げた。新潟県燕市では、書家らが生徒180人と一緒に平和への思いをしたためた書を奉納。この一斉揮毫はウクライナの平和を願う書家たちが企画したもので、全国の寺院38カ所で実施された(テレ朝NEWS「全国で書家らが一斉揮毫 ウクライナの平和を願い…」より抜粋)。

これらはすべて寺院で行われたようで「平和への祈り」はつまり平和になってほしいという「利益」を求めての宗教行為といえる。そして願いを叶えるための宗教行為は「呪術」的な様相を孕む。古来より神仏に依ってこの世における祈願成就、つまり「現世利益」を求める行為を「呪(まじな)い」と呼ぶ。現世利益とは「呪術」「魔術」の対象であった。恋愛成就も合格祈願もこの世ならざる存在にこの世の幸福を願う呪術である。平和への祈りを呪術とは何事かと憤慨する向きもあるかもしれない。もちろん平和を願う想いは尊い。呪術には切なる想いが込められている。否定されるべきものでないが、同時に宗教の本義とは異なることも認識しておくべきだろう。

■現世利益に対する神道の立場や歴史

神道の発祥は大自然の脅威と恩恵に対する畏敬の念であった。現代の神社は現世利益の代理店のような存在だが、総本山たる伊勢神宮では個人の願い事は慎まなくてはいけないとされる。春日大社宮司・葉室頼昭(1927〜2009)は神社での参拝では願い事ではなく、生かして頂いていることに「ありがとうございます」と感謝の言葉を心の中で唱えることを勧めている。考えてみれば三度三度の食事が食べられて苦しみながらも生きていられる生活は、戦地の情景を見れば奇跡のようなものである。まず感謝すべしだろう。

■現世利益に対するキリスト教の立場や歴史

キリスト教でも魔術、まじないを行う者は地獄行きである。聖書には「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」(マタイ福音書6章20節)とある。貧しい者は現世において何も持っていない。彼らは神に頼る以外なくなる。現代人の感覚では貧しいからこそ神様にご利益を求めるという発想になってしまうが、イエス・キリストは貧しいからこそ執着せずに済み、天国に近づくということになる。イエスも後述の釈迦と同様、執着を捨てよと説いたのだった。いずれにしてもご利益を求めて参拝する現代人の意識とは違い、本来の宗教とは現世利益は相容れないのである。

■現世利益に対する仏教の立場や歴史

仏教も本来現世利益とはかけ離れた宗教である。苦しみ悲しみの原因とは、あれも欲しい、これが足りない、それは手放したくないという執着である。無いものを求めるから苦しむ。在るものを失うから悲しむ。この世の一切の執着を捨て、苦しみ悲しみから解脱せよというのが釈迦の教えである。しかし日本仏教は元々鎮護国家を目的とした呪術として請来された。スタートから既に現世利益が目的だったのである。

仏教において現世利益といえば密教が挙げられる。密教寺院は神社と並ぶ現世利益の双璧だろう。不動明王や鬼子母神など現世利益を請け負う天部・諸天は密教の支配下にある。寺院では加持祈祷による安産祈願や病気治癒、厄払い、水子供養など多種多様な現世利益を請け負っている。密教も仏法であるからにはそれが最終目標ではない。いきなり無執着や悟りなどを説いても民衆はついてこない。 まず現世利益を叶えて仏法の正しさを納得させ帰依させる。密教の究極は大日如来との一体化にある。呪術的行為は悟りへ導くための方便なのである。だが現代では祈祷を受けて御札を頂いて帰るだけで終わる。寺院側も特に仏法の真髄を説くことはない。

■凡人が求める神仏とは

私たちは凡人である。難しい観念的形而上的な神仏より具体的なご利益を請け負って下さる神仏に頼ってしまう。「古事記」の冒頭を飾る宇宙初発の神、天之御中主神や高皇産霊尊を祀る神社は、八幡神社や稲荷神社に比べ極端に少ない。中国の最高神は宇宙創造の神・元始天尊だったが、現代では現世利益を請け負う玉皇大帝にその座を奪われている。ヒンドゥー教の三大神は宇宙創造の神・ブラウマー、破壊神・シヴァ、安定を保つヴィシュヌだが、実質2大神と言ってもよい程に形而上的なブラウマーの影は薄い。大日如来や阿弥陀如来の知名度は高いものの願掛けといえば、悟りを開いた如来より人間に近く具体的なご利益を司る、〇〇不動、〇〇観音、〇〇地蔵などといった菩薩、天部の下に人々は集まる。例外的に病気治癒の薬師如来も仲間に入るだろう。病気という苦しみから救われるためには、如来は敷居が高いなどと言っていられないのだ。

■人間らしさ

現世利益には限界がある。祈祷で病気が完治したとしても寿命が数年延びるだけであるし、私たちの最後は結局「死」である。それでも、病気が治るというならそれにすがる人がほとんどだろう。人生の最期の時。執着を捨てイエスの言う「貧しき者」になって天国に行くか。最後まで「神様仏様、助けてください」と叫びながら死ぬか。後者を笑うことはできない。宗教の本義を忘れてはいけないが、神仏の本尊に欲の達成を願う愚かさこそが人間らしさというものではないだろうか。

■参考資料

■葉室頼昭「<神道>のこころ」春秋社(1997)
新約聖書 新改訳 国際ギデオン協会

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