人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い

心に残る家族葬

人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い

中世の日本は乱れた政治、日照り干ばつなどの不作など、庶民にとっては暗黒の時代だった。そこに末法思想が浸透していく。末法の世では死後の往生もままならず、絢爛豪華な文化を彩っていた貴族たちにもその恐怖は植え付けらた。彼らの往生への願いは極楽浄土を模した寺院や、極楽の教主・阿弥陀如来像を数多く建立した。

■末法思想と観想念仏

平安時代は王朝文学の影響で1052年は末法の世の始まりとされた年である。末法とはは釈迦の説いた仏法が滅び救いがなくなる時期を指す。釈迦の教えは入滅後1000年は正しく伝わる「正法」、次の1000年は形だけは伝わるが中身が伴わない「像法」。その後は形だけの仏法も滅びていく「末法」となり完全に滅亡する「法滅」となる。平安時代には釈迦入滅を前949年と定められ永承7 (1052) 年から末法に入るとする説が定着した。仏法の無い世では死後もどうなるかわかったものではない。この世の栄華に身を委ねる貴族たちもやがては死ぬ。いかなる富も地位も死後の世界には持っていけない。末法に怯える貴族や為政者たちは極楽浄土への往生を説いた浄土教にすがり、極楽を模した寺院を建立した。

当時の浄土教は阿弥陀仏の姿や極楽浄土の情景をイメージする瞑想、観想念仏である。極楽寺院はそのイメージを具現化するための観想念仏ツールといえるものだった。つまり安心して死ねるための自家用ホスピスともいえる。究極の終活である。浄土教の流行は多くの極楽寺院、阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂、阿弥陀如来像などが生まれた。平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂などがその代表的建築物である。

■藤原道長・頼通の極楽浄土

平安期、絶頂を極めた藤原道長(966〜1028) は浄土思想に傾倒し、阿弥陀如来が中心に座する極楽浄土を模した寺院、法性寺を建立した。自身が建立した法性寺には九体の阿弥陀如来像が祀られていたという。九体とは浄土三部経のひとつ「観無量寿経」にある生前の行いによって変わる極楽往生のタイプ分けである。一つ一つにタイプ別の「手印」が存在しそれぞれの仏像も手印を組んでいた。しかし法性寺は1558年に焼失してしまう。

道長の息子の藤原頼通(992〜1074)もまた極楽往生を望み、この世に浄土の光景を演出した。それが京都有数の観光地として今も健在な平等院である。中でも極楽浄土の具現化を意図した鳳凰堂を知らない日本人はいないだろう。平等院は道長が営んだ別荘を頼通が永承7年(1052)に寺院に建て替えたもの。翌年、平等院の中に阿弥陀如来が鎮座する鳳凰堂(阿弥陀堂)が落慶した。池の水面に鳳凰堂が浮かぶ様はまさに極楽浄土の光景といえる。本尊の阿弥陀如来像を扉や壁が囲み、法性寺と同じくそれぞれに9タイプの来迎図が描かれており「九品来迎図」と呼ばれている。焼失した法性寺の意思を受け継ぐように現代においてもなお荘厳な美しさを見せてくれている。

■奥州藤原氏の極楽浄土

同じ藤原でも奥州平泉(岩手県平泉市)の地に京の都に匹敵する栄耀栄華を誇った、奥州藤原氏は代々荘厳な極楽寺院を建立している。初代清衡(1056〜1128)の中尊寺金色堂、二代・基衡(1105〜1157)の毛越寺、三代秀衡(1122〜1187)の無量光院などである。

最も有名な中尊寺金色堂は本尊・阿弥陀如来像を初めとする仏像群、それを囲む壁や天井と余すところなく金で装飾されている。「阿弥陀経」によると、極楽浄土には金銀、水晶、あらゆる宝石が敷き詰められているという。姿形だけではなく黄金による極楽の再現は、金の産地であり「黄金楽土」と呼ばれた平泉の栄華がわかる。毛越寺は円仁によって建立された名刹だったが後に荒廃し基衡が久寿3年(1156)に大伽藍を建てた。こちらもまた金銀を散りばめた豪奢なものだったという。有名な「浄土庭園」は当時の遺構として学術的価値が高い。奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡の無量光院は現在は存在せず跡地から偲ぶのみだが、平等院を模したものだと言われている。その模倣は徹底しており、庭園の構造・構成は、建物や池の位置に至るまで、平等院と酷似していたことが明らかになっている。

極楽寺院の中でも中尊寺金色堂は世界遺産にまで登録されるまでのクオリティを誇る。これら極楽寺院には、貴族たちの末法の恐れと極楽への切なる願いが込められている。しかし、これらを実際に創ったのは庶民である。貴族が寺院で観想念仏を修し、臨終行事を行なって安らかに往生する一方で庶民は苦しい生活を強いられてきた。彼らの臨終はどのようなものだったのか。

■最後に…

末法の世も極まると時代は法然(1133〜1212)を登場させる。法然は寺も仏像も必要ない野良仕事しながらでもできる称名念仏を広めた。しかしそれは芸術性の放棄でもあった。法然の浄土宗にはまだ来迎図などの芸術が残されているが、後の浄土真宗系の寺院などは柳宗悦(1889〜1961)が指摘するように、シンプルで芸術性に欠ける。真宗では阿弥陀如来像より「南無阿弥陀仏」の六字を本尊とすべしとの声もある程である。虚飾に塗れた印象の貴族仏教だが、残された仏教美術は見事なものである。そのおかげで現代の私たちも芸術に親しみ、当時の世相や死生観を学ぶことができるのも事実だ。形の無い称名念仏は信心が無ければ味わうことはできないが、観想念仏のための極楽寺院は、極楽往生を信じられなくてもその想いを感じることはできるのである。

「人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い」のページです。デイリーニュースオンラインは、社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る