人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い (1/3ページ)

心に残る家族葬

人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い

中世の日本は乱れた政治、日照り干ばつなどの不作など、庶民にとっては暗黒の時代だった。そこに末法思想が浸透していく。末法の世では死後の往生もままならず、絢爛豪華な文化を彩っていた貴族たちにもその恐怖は植え付けらた。彼らの往生への願いは極楽浄土を模した寺院や、極楽の教主・阿弥陀如来像を数多く建立した。

■末法思想と観想念仏

平安時代は王朝文学の影響で1052年は末法の世の始まりとされた年である。末法とはは釈迦の説いた仏法が滅び救いがなくなる時期を指す。釈迦の教えは入滅後1000年は正しく伝わる「正法」、次の1000年は形だけは伝わるが中身が伴わない「像法」。その後は形だけの仏法も滅びていく「末法」となり完全に滅亡する「法滅」となる。平安時代には釈迦入滅を前949年と定められ永承7 (1052) 年から末法に入るとする説が定着した。仏法の無い世では死後もどうなるかわかったものではない。この世の栄華に身を委ねる貴族たちもやがては死ぬ。いかなる富も地位も死後の世界には持っていけない。末法に怯える貴族や為政者たちは極楽浄土への往生を説いた浄土教にすがり、極楽を模した寺院を建立した。

当時の浄土教は阿弥陀仏の姿や極楽浄土の情景をイメージする瞑想、観想念仏である。極楽寺院はそのイメージを具現化するための観想念仏ツールといえるものだった。つまり安心して死ねるための自家用ホスピスともいえる。究極の終活である。浄土教の流行は多くの極楽寺院、阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂、阿弥陀如来像などが生まれた。平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂などがその代表的建築物である。

■藤原道長・頼通の極楽浄土

平安期、絶頂を極めた藤原道長(966〜1028) は浄土思想に傾倒し、阿弥陀如来が中心に座する極楽浄土を模した寺院、法性寺を建立した。自身が建立した法性寺には九体の阿弥陀如来像が祀られていたという。九体とは浄土三部経のひとつ「観無量寿経」にある生前の行いによって変わる極楽往生のタイプ分けである。一つ一つにタイプ別の「手印」が存在しそれぞれの仏像も手印を組んでいた。しかし法性寺は1558年に焼失してしまう。

道長の息子の藤原頼通(992〜1074)もまた極楽往生を望み、この世に浄土の光景を演出した。

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