ビートたけし超えも!有吉弘行の天下取りの秘密は、貧乏時代の仰天エピソードと「人を傷つけない毒舌」
「ビートたけしも成し遂げられなかった偉業。一時期はどん底まで落ちた彼が、ここまで這い上がるとは、人生は分かりませんね」
テレビ局ディレクターがこう驚くのも無理はない。あのビートたけし超えを果たした彼とは、有吉弘行(48)のことだ。
「今や“有吉”の名前の入った冠番組は12本。NHKから民放まで全局を制覇しています。さらに、『有吉クイズ』(テレビ朝日系)の放送時間が、10月期より火曜夜11時45分から、夜8時台に“昇格”することが発表されたんです」(テレビ誌ライター)
その結果、冒頭の快挙となったわけだ。
「全局制覇に加え、全曜日“ゴールデン・プライム帯”(午後7時から11時まで)に冠番組を持つことになるんです」(前同)
いやはや、すごい。そこで今回は、最強MCとなった有吉の“天下獲り伝説”を紹介していこう。
1994年、有吉は森脇和成と『猿岩石』を結成。無名の売れないお笑いコンビだったが、96年に『進め!電波少年』(日本テレビ系)のヒッチハイク企画で大ブレイクを果たした。
「6か月に及ぶ過酷なロケで、絶望しながら2人で野宿をする姿なども、視聴者の心を打ちましたね」(芸能ライター)
だが、日本中を席巻した猿岩石ブームはすぐに終わり、給料は一気にダウン。しまいには、給料ゼロのどん底状態に陥ってしまうのだ。
著書『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ50の法則』(双葉社)には、当時の有吉の生き様が描かれている。
〈1日1食です。1日250円、全部スーパーの見切り品。あの頃、スーパーの見切り品がごちそうでした〉
お金と仕事がないため、こんなこともやっていた。
〈京王デパートに行くと「来店ポイント」が5ポイントもつくんですよ。その5ポイントをもらうために、毎日のように歩いて京王デパートまで行っては、5ポイントをもらって帰ってくる〉
■有吉弘行と上島竜兵との関係
そんな有吉といえば、5月10日に亡くなった上島竜兵さんを慕っていたが、〈竜さんと飲みにいけば、「タクシー代ください!」とか、もっとストレートに「2万円ください!」とか、そこはもう恥も外聞もなく小遣いせびってましたから〉と、地獄の極貧時代を支えてもらっていたようだ。
テレビ局関係者が語る。「有吉さんは本当に、ぜいたくをしない。再ブレイク後、年収は億を超えていたのに、愛車はしばらく、けっして高くないホンダのオデッセイでした」
以降も無駄遣いをしないスタンスは徹底しており、
「有吉さんを撮影するため、ホテルを用意したんです。ところが有吉さんは、“そんなことに高い金を使うのはアホらしい。俺は便所でも路上でも、どこでも着替えるから!”と言って、本当に狭いところで着替え始めたんです」(出版関係者)
売れてからも、偉ぶらない有吉の“人間力”が、再ブレイクの要因でもあるようだ。
芸能レポーターの城下尊之氏が、こう語る。
「有吉が再ブレイクしたきっかけは、2007年に『アメトーーク!』(テレビ朝日系)で、『品川庄司』の品川祐に“おしゃべりクソ野郎”と、あだ名をつけたこと。これが、視聴者の共感と同意を得られたんです」
この“視聴者目線”というのは、有吉にとって大きな武器だという。
「たとえば、彼はMCのときでも、VTRがつまらないと、“よく分かんなかったね”と、視聴者も感じたであろう意見をそのまま言う。視聴者の共感を得られるアドリブができる」(前同)
毒舌も彼の真骨頂だが、言われた側が損をするケースはほぼない。以前から頻繁に番組で共演し、ときには厳しいツッコミを受けていた蛭子能収も、その一人。
「蛭子さんは、“有吉さんのツッコミは愛があるので、全然、嫌じゃない”と言っていました。かつて笑福亭鶴瓶さんが、“蛭子さんを、どう料理するかで芸人の腕が試される”と話していましたが、その点、有吉さんの腕は天下一品でしょう」(芸能プロ関係者)
現在発売中の『週刊大衆』8月8日号を読めば、有吉弘行がもっと好きになるかも。